SSブログ

静の櫻(長野県) [静]

2011年9月17日

1109170001改.JPG1109170002.JPG愛車SAABの会合が、信州安曇野で行われることから、折角の機会なので、長野県大町市にある「静の桜」を訪れることにした。

場所は信濃大町の市街を抜け、少し山に入った所にある。住所は大町市美麻大塩「静の桜公園」となるようだ。比較的広目の山道(舗装路)を登って行くと、やがて丘のような公園のほぼ中央に「静の桜」と思しき巨木が生えているのが見えて来る。
この日は、車の往来はもとより、人の姿も見えない。しかし公園の直ぐ側には最近建てられたと思われる戸建ての住宅や食事のできる店などが立ち並んでいた。そのような状況から、公園の駐車場も直ぐ側に5台ほど停められるようになっていたが、敢えて路駐をさせてもらい、愛車と桜のツーショットを撮らせてもらった。

さて、義経の愛妾「静御前」の終焉の地は定かではない。
ネット百貨辞典「ウィキペディア」で「静御前」を引くと”伝説”の項に「長野県大町市美麻大塩(旧美麻村)には、静御前が奥州と大塩を間違えてたどり着き、そこで亡くなりその時、地面に刺さった杖から芽吹いたという、イヌザクラの巨木「静の桜」がある。別名「千年桜」ともいわれており山中深く美麻の丘に一本佇む姿は「神聖な桜」とも伝えられ、修行僧が静御前の魂を供養し千年桜より癒されたといわれている。」とある。

1109170009.JPG静御前が「大塩」を「奥州」と聞き違えたというのがことの発端のようであるが、字から見ると「オオシオ」を「オオシュウ」とは聞き違えないのではないか?と思ってしまう。しかしネット上の他の解説によれば、地元では「オオシュウ」に近い発音をするため、静御前など他地域の人間には「オウシュウ」に聞こえてしまうのだそうだ。
何れにしても、真偽の程は今となっては不明だが、この話自体は悲恋の結末には違いない。

静御前の終焉そのものについても、自殺説、病死説があるほか、義経の後を追ったとするもの、母「磯禅師」と共に母の故郷に戻ったとするものなど様々である。
京都府京丹後市網野町磯にある「静御前生誕地」では、鎌倉から解放された静御前が、母磯禅師と共に、ここ丹後の地に戻り亡くなったとされている。

源義経やそれに関わった人々の動向等は、鎌倉幕府正史「吾妻鏡」を始め「義経記」「平家物語」「源平盛衰記」「玉葉」などを参考にする場合が多いという。しかし、史実とされる「吾妻鏡」でも作者の意図や、政治的判断など様々な理由から事実と異なる記載がなされている可能性が有り、本当の所はどうなのかという判断は難しいようである。増して「義経記」「平家物語」などは「物語」であり、大筋では史実に基いてはいても、作者の意図的な創作も多分に含まれているという。
静御前が何処でどのように過ごし、終焉を迎えたのかは、義経の終焉よりも「永遠の謎」かも知れない。


nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 0

コメント 2

sajama

かめ様

こんにちは。

静御前探訪も追加されまたその後もSOCJ・SNSミニオフ会と精力的な活動に脱帽です。 カブリオレ最適シーズンを満喫されているご様子、此方まで楽しい気分に成ります。 毎度リラックスのお裾分けを有難う御座います♪♪

昔の人、義経は追手のついぶから逃れる為とは言え、の長距離行のパワーは男女を問わず、凄い脚力と精神力ですね。 もしかすると尼とか静とか御前さん達はその名前のしなやかさとは裏腹に結構マッチョな人達だったのかも知れませんね、心技体共に!! その御二人を一手に引き受けて居た義経さんは、これまた現代解釈からのイメージとは大きく違って、いよいよ絶倫超マッチョ男だったのかも、などと余計な想像も巡らせたりしちゃいました。

伝説を追う旅路は結構な距離を積み重ねる事となりそうですね、それだけにSAAB君には此れまで以上に頑張って貰わなくてはですね、諭吉君には本来の機能と役割を惜しみなくバッチリ果たして貰いましょう、要の処では惜しみなく巣立たせてやりましょう・・・・
(他人事だから申しているのでは決してありません、実は私も旅立たせました結構な人数を、カメラ関連で♪♪)
by sajama (2011-10-01 13:39) 

かめ

>sajamaさん

いつもながら、ご訪問戴き、また優しいコメントを有難うございます。

先月(9月)は、少々出歩き・・・否、出走り過ぎのような気がします。エアコンがすっかり元通りになり、気候も良くなり、ついつい根っからの”出たい虫”が暴れてしまいました。(笑)
お陰で、決して安くないガソリン代が非常にかさんでしまいました。^^;
今月は少々控え気味にしようと反省しているところです。

「英雄色を好む」といいますが、いくら「色」を好んでも、色が寄って来るとは限りません。
義経はその点、色の方からも好まれたようで、常に身近にいたようです。

>・・・いよいよ絶倫超マッチョ男だったのかも・・・

仰る通りのように思われます。しかし言い伝えによれば、当時の武将の中では小柄で華奢な風体という話もありますし、平氏との戦いの中で、弓を海に流してしまい、慌てて拾いに行った・・・何故なら余りにも柔な弓で「これがあの源義経の弓か」と笑い者にされるのが嫌だったから・・・という逸話もある位、華奢な男だったという話もあります。
色男で、源氏の御曹司とくれば、女性にモテても当たり前なのかも。

>実は私も旅立たせました結構な人数を、カメラ関連で・・・

オオ!やはりそうでしたか。私も来年には、そろそろカメラへの投資を始めたいと思っている所ですが、まだまだこの先何が起こるか分かりません。緊縮財政には努めようと・・・思いはすれど♪
by かめ (2011-10-01 16:15) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。