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弁慶誕生の地(島根県) [弁慶]

2014年8月12日

”武蔵坊弁慶生誕の地”として和歌山県田辺市(既報「弁慶誕生の地(和歌山県)」)が知られているが、他に島根県松江市もある。
和歌山に伝わる”弁慶誕生伝説”と松江に伝わるそれとでは、少々話が異なっている。当たり前と言えば当たり前かも知れないが、面白いのは、松江の伝説で”弁慶の母(弁吉)の出身地を和歌山”としている点である。どちらが真実を語っているのかは別として、何らかの形で和歌山(紀伊国)が関わっていたのかも知れない。しかし、弁慶そのものの存在を疑問視する意見もあり、疑問は依然”霧の中”と言える。
そうした中、今回2大誕生地のもう1つ、松江(島根半島地域)を訪問して来たので報告する。

松江(島根半島地域)に伝わる”弁慶誕生伝説”はリンクのWikipediaに譲るが、和歌山県田辺市よりも”ゆかりの地”が分散しているため、マイカーでの移動でもボリューム感があった。

2014-08-12_0026.JPG2014-08-12_0015.JPG<鰐淵寺(がくえんじ)>
島根県出雲市別所町148

仁平元年(1151年)松江市に生まれた弁慶は、当寺で18歳から3年間修業をしたとされている。また、源平合戦の最後の戦いである「壇ノ浦の合戦」の後、出雲に戻ると当寺に身を寄せた。
2014-08-12_0027.JPGまた、伯耆大山寺の鐘を一夜の内に持ち帰ったとする伝説もある。



2014-08-12_0033.JPG<弁慶の里 道の駅本庄>
島根県松江市野原町401番地8

当地は弁慶に関する情報を紹介するコーナーを設けているが、弁慶ゆかりの碑、品などは特にはおいていない。



2014-08-12_0035.JPG2014-08-12_0037.JPG<弁慶の森>
島根県松江市長海町弁慶森

当地は武蔵坊弁慶が生まれたとされる森である。森の入り口に立てられた解説板によれば、「弁慶の森 武蔵坊弁慶が生れた森。 弁慶の母弁吉は紀州和歌山県田辺市の生まれだが、縁あって長海の里に来て弁慶を生んだという。 この森の入り口から5分程登ったところに母弁吉が手で掘ったといわれる弁慶産湯の井戸跡がある。また中央には、弁慶が母の御霊をまつる為に建立した小さな祠「弁吉女霊社」があり、弁吉女霊社祭が毎年7月1日この地で行われる。」と記載されている。


2014-08-12_0039.JPG<弁慶の大石>
「弁慶の森」の道を挟んだ反対側

”松江市本庄公民館”発行の「海と山に抱かれた本庄 まちあるきマップ」の説明によれば、「生まれたとき弁慶は母の胎内に13カ月いて、髪はすでに肩まで伸び、歯も生え揃っていた。小さい頃から体はとても大きく力持ちで、5歳のときには高さ2メートルの大石を、軽々と持ち運んだ。その大石は弁慶の森の入り口付近の畑の中に、今でも置いてある。」と書かれている。



2014-08-12_0040.JPG<弁慶島>
島根県松江市野原町

「弁慶の大石」同様「海と山に抱かれた本庄 まちあるきマップ」の説明によれば、「弁慶があまりにも乱暴だったため、それに怒った母弁吉は弁慶を流した。それが亀島(かめしま)いわゆる弁慶島である。ここで弁慶は、父親と名乗る天狗から兵法を学び、後に自力でこの島から脱出したとのこと。今は陸続きになっているが、島には通行禁止で渡れない。」とされている。



弁慶の手掘井戸(新潟県) [弁慶]

2014年5月2日

元暦2年(1185年)11月3日、義経は300騎を引連れて都を落ち、西国を目指した。ここに始まる義経以下郎党の逃亡劇は、日本全国(主には北陸から東北)に様々な伝説を残すことになる。勿論、義経一行の逃亡ルートは定かではない。しかし最終的には、奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に保護されていることから、凡そ京都から北陸道を進み、最終的に平泉に入るルートが考えられる。 
逃亡は多人数では目立つことから少人数であったことは想像に難くない。事実(?)各地に残る伝説でも武蔵坊弁慶他数人の家来が同行している。加えて、数人の女性も同行しているのも奇異といえば奇異だが、山形の瀬見温泉や他数カ所に残る伝説では、正室や妾など様々変化しながらも女性を伴っている。
そうした中、当地新潟県長岡市寺泊にある「聚感園(しゅうかんえん)」に残された古井戸は、弁慶が掘った井戸とされている。

2014-05-04_0005.JPG2014-05-04_0009.JPG<弁慶の手掘井戸>
新潟県長岡市寺泊二ノ関2725

義経一行が北陸を逃げて行く時に、鎌倉方の目を避けて一時逃げ込んだ当地の五十嵐家には、弁慶が掘った井戸が残されているとしている。

2014-05-04_0011.JPG現在はその五十嵐家邸宅跡が新潟県長岡市指定の文化財、史跡公園「聚感園」となっているが、「聚感園」の説明書きには「文治三年(1187年)頼朝に追われた義経・弁慶主従は奥州落の途次、追手の目をのがれて五十嵐家にかくまわれました。その時の浴室の跡と弁慶手掘の井戸があります。」と書かれている。

2014-05-04_0004.JPGまた、井戸の傍に立てられた説明には「弁慶井泉の詩 文治三年(1187年)源義経、弁慶主従が、北国落ちのとき、ここ五十嵐邸にしばらく滞留したと伝えられ、そのとき弁慶が自ら井戸を掘って義経に供したといわれている。文化年間に漢学者の亀田鵬斎が五十嵐家を訪れ、弁慶井泉の詩をつくった。(以下略)」と書かれている。


弁慶の墓(岩手県) [弁慶]

2014年4月28日

文治5年(1189年)閏4月30日、義経は奥州平泉の衣川館で、藤原泰衡の軍勢に攻められ、正妻と娘(4歳)を殺害し、自らも自害して果てた。この時、義経の家来であった”武蔵坊弁慶”も、あの「弁慶の立ち往生」で戦死したと伝えられている。
その後、弁慶の首級は義経の首級と共に、鎌倉に送られたと、神奈川県平塚市にある”白旗神社”の言い伝えにある。また白旗神社の直ぐ傍の”常光寺”には「弁慶の首塚」もある。となると、白旗神社の言い伝えが正しければ、今回紹介する”弁慶の墓”は”躰”だけが葬られた所ということになるが、果たして真実は如何に。

2014-04-28_0001.JPG2014-04-28_0002.JPG<武蔵坊弁慶の墓>
 岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関地内

岩手県平泉町の世界遺産「中尊寺」。その参道入り口脇にあるのが「武蔵坊弁慶の墓」である。傍に立てられた「武蔵坊弁慶大墓碑 建立由来」という解説板には「文治五年(1189年)義経の居城高舘焼討されるや、弁慶は最後まで主君を守り、遂に衣川にて立往生す。遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて、後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ石碑が建てられた。色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊」とある。


義経妻子の墓(岩手県) [平泉]

2014年4月28日

文治5年(1189年)閏4月30日、義経は奥州平泉の衣川館で、藤原泰衡の軍勢に攻められ、正妻と娘(4歳)を殺害し、自らも自害して果てた。享年31歳だった。
義経は首を鎌倉に送られ、躰は別に葬られた。首は神奈川県平塚市の「白旗神社」に葬られたといわれ、躰は宮城県栗原市にある「判官森」と呼ばれる所に葬られたと伝えられている。また、義経に殺害された正妻(吾妻鏡では河越氏の娘「郷御前」としている)と娘を葬ったのが、平泉にある「源義経公妻子の墓」とされている。

2014-04-28_0057.JPG2014-04-28_0053.JPG<義経妻子の墓>
岩手県西磐井郡平泉町 金鶏山麓

平泉の街から金鶏山を目指すと、山道に入って間もなく千手堂の標示があり、その脇に古い木の鳥居があり奥に「源義経公妻子の墓」の標示が見えて来る。


2014-04-28_0054.JPG2014-04-28_0056.JPG墓の傍に立てられた解説板には「源義経公妻子の墓 源頼朝の威圧に依って藤原泰衡が高舘に義経公を襲った。義経公は北の方と幼児を殺害し、自害したと伝えられる。時は平安時代の文治五年(1189年)閏四月三十日、三十一歳で最期を遂げられた。このお墓は、高舘で悲しくも露と消えた妻子の墓と伝えられているが、元は千手院境内で、ここから約三百米程の西北金鶏山の山麓にあったが、ここに墓石を遷し供養を怠らない。」と記されていた。


八幡神社-兄弟の再会-(静岡県) [源平合戦]

2013年11月24日

治承4年(1180年)8月17日、源頼朝(みなもとのよりとも;義経の異母兄)が伊豆国で旗揚げをすると、奥州平泉にいた義経は数名の部下と共に、頼朝の元に馳せ参じた。そして10月21日、現在の静岡県駿東郡清水町となる黄瀬川の陣で兄弟の対面がなされるのである。

2013-11-24_0045.JPG2013-11-24_0044.JPG対面石
駿東郡清水町八幡39 八幡神社境内

頼朝と義経の兄弟が対面した時に、椅子代わりに腰掛けた石とされる一対の石が残されている。場所は国道1号を静岡方向に向かい、八幡交差点を側道に入り県道380号の長沢西交差点を東に入ったすぐ近くとなる。

2013-11-24_0048.JPG解説板には次のように書かれていた。「対面石 所在 清水町八幡 八幡神社境内 治承四年(1180年)10月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた弟の義経と対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。 この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。 またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったのでねじってかたわらに捨てた。すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、この二本は幹をからませねじりあっていたので、いつしかねじり柿と土地の人は呼ぶようになった。 清水町教育委員会」


鞍馬寺、貴船神社(京都府) [鞍馬寺]

2013年10月13日

2013-10-13_0041.JPG2013-10-13_0063.JPG「牛若丸(うしわかまる)」(源義経の幼名)が11歳の時に「鞍馬寺(くらまでら)」に預けられ、夜な夜な鞍馬の天狗から剣術を習ったという伝説は有名である。
今回、”鞍馬の天狗”は別として、牛若丸が預けられた「鞍馬寺」とその裏山で剣術修業をしたとされる”ゆかりの地”、及び遮那王(牛若丸)が平家討伐を祈願したといわれる「貴船神社(きふねじんじゃ)」までの山道を辿ってみた。(写真左:鞍馬寺山門、写真右:鞍馬寺本堂)

鞍馬寺の本堂までに、以下の3カ所を見つけた。

2013-10-13_0049.JPG2013-10-13_0048.JPG鬼一法眼社>
鬼一法眼(きいちほうげん)」とは、南北朝時代から室町時代初期に成立したといわれる「義経記(ぎけいき)」に登場する伝説上の人物で、「六韜三略(りくとうさんりゃく)」という中国伝来の”兵法の書”を持つ陰陽師と設定されている。詳細はWikipediaに譲るが、この兵法の書を源義経が手に入れ、後に”源平合戦”で大活躍をするということである。
この<鬼一法眼社>は、この話に因んで「鬼一法眼」を祀る社となっている。入り口の説明書きには「鬼一法眼は牛若丸に「六韜三略」の兵法を授けた武道の達人といわれる。武道の上達を祈願する人も多い。」と書かれている。


2013-10-13_0058.JPG2013-10-13_0057.JPG<川上地蔵堂>
堂の前の説明書きには「遮那王(しゃなおう)と称した牛若丸(義経公)の守り本尊である地蔵尊が祭られており、牛若丸は日々修行のときにこの地蔵堂に参拝したといわれる。」と記してあった。


2013-10-13_0060.JPG2013-10-13_0059.JPG<義経公供養塔>
「八百年余り前、牛若丸が遮那王と名乗り、七歳の頃から十年間、昼は学問、夜は武芸に励んだときに住まいした東光坊の旧跡である。義経公をしのんで、昭和十五年に供養塔が建てられた。」と塔の前の説明書きに記されていた。

本堂を過ぎ、裏山から貴船神社までの道程に以下のものがあった。

2013-10-13_0075.JPG2013-10-13_0074.JPG<義経公息次の水>
奥の院に向かう一本道の脇に水飲み場のような所があり、その説明書きには「牛若丸が,毎夜奥の院僧正が谷へ剣術の修業に通ったとき、この清水を汲んで喉をうるおしたといわれる。八百余年後の今も沸きつづけている。」と書かれている。


2013-10-13_0079.JPG2013-10-13_0078.JPG<義経公背比べ石>
これも”奥の院”に向かう道沿いにある。「遮那王と名のって十年あまり鞍馬山で修業をしていた牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衡の許に下るときなごりを惜しんで背を比べた石といわれる。波乱に富んだ義経公の生涯は、この石に始まるといえよう。 ”遮那王が背比べ石を山に見てわがこころなほ明日を待つかな” 與謝野 寛」との説明書きがあった。

2013-10-13_0081.JPG<僧正が谷不動堂>
鞍馬に住む”鞍馬天狗”は”僧正が谷”にいるといわれているとか。この場所にある不動堂の説明書きには「堂内の不動明王は比叡山開祖伝教大師がここに参篭なさったときお刻みになったと伝えられる。また牛若丸が鞍馬天狗より兵法を学んだ舞台は、このあたりであるという。」とあった。


2013-10-13_0082.JPG2013-10-13_0083.JPG<義経堂>
義経公の御魂を祀る堂で、「歴史には文治五年(1189)四月、奥州衣川の合戦にて自害したと伝えるが、義経公の御魂はこの山におわし遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正のお働きを助けておられるという。 この義経堂には遮那王尊をおまつりする。」と説明されていた。

2013-10-13_0090.JPG2013-10-13_0096.JPG尚、終着点の「貴船神社」には、特に”源義経”に関係する案内は出されていなかったが、鞍馬と貴船の距離は上の地図を見ても明らかなように、程近い(当時は特に)距離にあるので、祈願成就のため参詣した可能性は十分にあると思われる。


剛山、笛吹山(兵庫県) [源平合戦]

2013年10月12日

源平合戦で有名な寿永3年(1184年)の「鵯越(ひよどりごえ)」や「一ノ谷(いちのたに)の戦い」で、源義経の名声は天下に響き、この後の寿永4年の「屋島(やしま)の戦い」、同年「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」へと突き進んで行く。その「鵯越」の前に京から丹波国(たんばのくに)篠山(ささやま)を通るその時の伝説ということになる。

尚、篠山市及びその周辺に残る「義経ゆかりの地」は、殆どその解説などがされていない。「義経ゆかりの地」の標識もなされていないため、伝承地の確認ができなかった。
そういった事情から、今回はネット情報を元に「・・・だろう」と思われた場所を紹介する。

2013-10-12_0002.JPG【笛吹山】

ネット情報では、「兵庫県立篠山鳳鳴(ほうめい)高校の裏手に位置する山」とされていた。また、そこに残されている伝承は「義経の一隊は、北の街道と南の街道に分かれて西進し、義経は北の街道を進んだが、この地で小息し、笛を取り出し一曲を奏でたので、以来この山を「笛吹山」、そしてその地の薬師如来を「笛の薬師」というようになったと伝えられる。(篠山市HPより)」とされていた。

写真:手前が「県立篠山鳳鳴高校」。後ろの山が「笛吹山」と思われる。

2013-10-12_0020.JPG【剛山(こうやま/ごうやま)】

地元伝説によれば「源義経が丹波を通過した元暦元年(1184)二月四日泉村の南賀寺に詣でた。ちょうど当日は寺講の日であったので、義経らは寺講のご馳走の接待を受けた。義経は大いに喜び、「この東の山は何というか」と尋ねた。すると住持は「これはこう山と申しまする」と答えた。そこで義経は「さらば今日の寺講を記念して講山と唱えよ」といったので、以来西から講山、東から甲山、南から神山、北から剛山、と呼ぶようになったと伝えられ、いずれにしても「こう山」に違いはない。現在の地図には「剛山」と書かれている。(篠山市HPより)」とされている。

写真:正面の山が「剛山」。たまたま話をした地元の人も、この山について「義経伝説」があるといわれていた。


三八城山と弁慶石(青森県) [弁慶]

2013年8月10日

2013-08-10_0067.JPG<三八城(みやぎ)山と弁慶石>
青森県八戸市内丸1-14-49他

2013-08-10_0066.JPG源義経主従の中で、武蔵坊弁慶はその怪力が有名となっている。怪力が所以となって「弁慶のXX」という物が全国各地に存在する。ここ「三八城神社」にも「弁慶石」が残されていた。

三八城神社は、その名の通り八戸城本丸跡地に造られた三八城公園内にある。2013-08-10_0064.JPG【義経北行の旅案内板について】という案内板には「この地方には、源九郎判官義経が平泉を脱出し、北へ向かったという語り伝えが有り、八戸市内にも義経の北行にまつわる伝説を裏づける多くの地名や品々が残っている。これらの紹介が歴史ロマン散策の資となることを願って市内伝説の足跡16ケ所に案内板を設置した。」と解説し、その同じ案内板に「【三八城山と弁慶石】 義経が、高館の御所から見渡して、馬渕川の東の野原を京ケ原と名付け、また京ケ原の北の州先を京ケ崎と命名したのが、今の三八城山である。足下のこの大きな石は、弁慶石と呼ばれ、昔は境内南側のコブシの木のあたりに置かれていたという。
石のところどころが、人間の大きな足型のようにくぼんでいるのが、力自慢の弁慶が岩にしるした足型だといわれている。 社団法人 八戸観光協会」
と弁慶石を紹介している。因みに、昔は「義経石」もあったようだが、現在は行方不明になっているようだ。


北行伝説-八戸「弐」-(青森県) [北行伝説]

2013年8月10日

2013-08-10_0052.JPG2013-08-10_0053.JPG<藤ケ森稲荷神社> 
青森県八戸市類家1-7

道路の中洲のような所にある小さなお稲荷さんだった。大通りから入って直ぐの所で、車の置き場所に困ったものである。
当社には【「伝説」源義経 北方コース】の解説板がなく、下調べをしてなければ「義経ゆかりの地」とは分からなかったかも知れない。
当社は、義経が信心していた藤ケ森稲荷を京都より勧請したとのことである。

2013-08-10_0057.JPG2013-08-10_0055.JPG<帽子屋敷(ぼうしやしき)>
青森県八戸市類家二丁目5-15 芭蕉堂公園

俳人松尾芭蕉に因んだ「芭蕉堂公園」となっているこの地が、義経伝説の残る「帽子屋敷」の地である。【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【類家村・帽子屋敷】悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ文治五年(1,189年)四月、平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれる。短く華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのであろう。世にいう「判官びいき」である。
「類家稲荷大明神縁起」(おがみ神社所蔵)によれば、藤ケ森稲荷を祭ったこの地に参詣するために高館からの往来も大変だということで、義経をはじめとして家来たちはめいめいに茅ぶきの小屋を建てた。この茅ぶき小屋が家の形に類似していたので「類家の者ども」と呼ばれた。
また、一行が参詣した折に装束の烏帽子や狩衣などを置くところがなかったため、お宮の外に仮杭を立て、それらを掛けておいたところから「帽子屋敷」と呼ばれた。
いずれも、藤ケ森稲荷ゆかりの地名だといえる。 社団法人八戸観光コンベンション協会」
と解説されている。

2013-08-10_0059.JPG2013-08-10_0062.JPG<おがみ神社>
青森県八戸市内丸2-1-51

当社は本八戸駅に近く、八戸城二の丸跡にあり、法霊神社、法霊山とも呼ばれている。主祭神は高おかみ神(たかおかみのかみ)と法霊大明神(ほうりょうだいみょうじん)とされている。
【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【法霊山おがみ神社】源義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1,189年)岩手県平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれ、悲劇の名将として世に伝えられております。
当地方に伝えられている伝説によれば、北へ逃れた義経は、八戸に上陸し市内の高館に住んだと云われております。2013-08-10_0060.JPG
元中年間(1205年)義経夫人(京の久我大臣の姫君)が亡くなり京ケ崎に葬り、法霊大明神とあがめられました。おがみ神社がその場所だといわれております。
この神社には、八戸の義経伝説の記録「類家稲荷大明神縁起」が所蔵されています。 (社)八戸観光協会」
と書かれている。
所で、解説に「京の久我大臣の姫君」とあるが、この北の方は南北朝時代から室町時代初期に書かれた「義経記」に出て来る人物で、実在を疑う説もある。通常「吾妻鏡」に登場する「河越重頼の女(むすめ)」が北の方とする説が有力である。

2013-08-10_0079.JPG2013-08-10_0073.JPG<小田八幡宮(こだはちまんぐう)>
青森県八戸市小田1-2-1

当社「小田八幡宮」の縁起には、天喜年間(1046から57)に建立されたと記されているという。主祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと;応神天皇)とされている。
【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【小田八幡宮】源義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1,189年)岩手県平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれ、悲劇の名将として世に伝えられております。
2013-08-10_0080.JPG当地方に伝えられている伝説によれば、北へ逃れた義経は、八戸に上陸し、近くの高館に住んだといわれています。
その時この宮に義経が持参した毘沙門天の像を、八幡の神に合せ奉ったともいわれ、また家来と共に奉納した大般若経の写経と経箱が現在も奉られています。 八戸観光協会」
と記されていた。
2013-08-10_0088.JPGまた、別の解説板には「【小田村の地名起源】「類家稲荷大明神縁起」(おがみ神社所蔵)によれば、義経が鞍馬から持参した毘沙門天の像を祀った小田八幡宮の前通りに、義経自らが小さな田を段々に開いていったことから「小田」と命名されたという。
義経が住んでいた場所はこの地に程近い高館山の西方にあったと言われている。」
と記されていた。


北行伝説-八戸「壱」-(青森県) [北行伝説]

2013年8月10日

2013-08-10_0029.JPG2013-08-10_0027.JPG<種差海岸(たねさしかいがん)>

青森県八戸市のHPには、”義経北行伝説”の中で、この「種差海岸」について「海路脱出した義経の八戸の上陸地点と言われている。」としている。
海岸は広く、私はどこに義経一行が上陸したのか、確認することはできなかったが、恐らくは砂浜の方に上陸したのではないかと想像を逞しくした。

2013-08-10_0035.JPG<熊野神社>
青森県上北郡六戸町大字犬落瀬字柴山56

2013-08-10_0032.JPGここ「熊野神社」は種差海岸から程近い少し内陸に入った所にあった。道路際に立てられた【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【熊野神社】悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1,189年)四月、平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。 当地方に伝えられる伝説によれば、平泉を逃れた義経主従は、気仙沼の港から海路北上種差海岸に上陸して休憩した場所または八戸上陸の地と伝えられている。 八戸観光協会 種差観光協会」と書かれていた。
尚、青森県神社疔のHPには主祭神は「伊邪那美命(イザナミノミコト)」とされている。また、縁起も出ているので興味のある方はここをご覧戴きたい。

2013-08-10_0039.JPG三嶋神社
青森県八戸市白銀町三島上5-92013-08-10_0040.JPG

JR白銀(しろがね)駅近くの三嶋神社に立てられた【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【源氏囲内(げんじかこいない)】(源氏の屋敷という意味が「源氏囲内」になったといわれる)悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1,189年)四月、平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのであろう。世にいう「判官びいき」である。 海路を舟でやってきた義経一行は、八戸の浦へ上陸し、白銀(しろがね)の村に一時仮住居を定めることにした。このあたり白銀に残る「源氏囲内」という地名は「源氏の屋敷」との意味だったといわれ、義経一行が舘越に居を移す前に法官氏の世話で住んでいたところであるという。
法官という姓は、義経が一行に世話を焼いてくれた者に「今後、判官と名乗るがよい」と申し渡したが、判官と名乗るのは差し障りがあるというので法官と改姓したといわれている。 社団法人八戸観光協会」
と書かれていた。

2013-08-10_0048.JPG2013-08-10_0042.JPG<長者山新羅神社(ちょうじゃさんしんらじんじゃ)>
青森県八戸市長者1-6-10

当神社の主祭神は「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」と「新羅三郎源義光(しんらさぶろうみなもとのよしみつ)」とされている。そして源義経と当社の関係は、【「伝説」源義経 北方コース】の解説板に「【長者山】悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ文治五年(1,189年)四月、平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれる。短く華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのであろう。世にいう「判官びいき」である。 当地方に伝えられている伝説によれば、平泉にいた義経に命令された家来の板橋長治と喜三太が義経の居所をこしらえようと柴を回し木を植え、みだりに人が入らないようにした土地と伝えられており、昔は長治山と呼んでいたと言われている。それが今では長者山と呼んでいる。 社団法人 八戸観光コンベンション協会」と解説している。
つまり、義経の居所を造ろうとした場所ということになる。


北行伝説-遠野、宮古-(岩手県) [北行伝説]

2013年8月12日

源義経は文治五年(1189年)閏4月、奥州平泉の衣川館で31歳の生涯を終えた。これは、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡(あづまかがみ)」に書かれている内容である。しかし東北地方、それも平泉(岩手県)以北には所謂義経の「北行伝説」なるものが残っている。
義経は、平泉では死なず、蝦夷が島(北海道)を目指して逃げたというものである。この話は蝦夷が島から更に大陸へ渡り、果てはモンゴルの英雄「チンギスハン(成吉思汗)」になったという「義経は成吉思汗なり(小谷部 全一郎(おやべ ぜんいちろう))」にまで繋がるようだ。それはともかく、義経の「北行伝説」は伝説ではなく、事実であるとした歴史家「佐々木勝三」氏がいた。氏は自らの資材を投げ打って、義経の足跡を自らの足で追ったことで有名である。
今回私は、佐々木勝三氏ほど緻密に義経の足跡を追うことはできないが、その一部を経験することができた。

「北行ルート」は平泉から津軽半島の竜飛崎までの一方通行だったが、私は都合上北から南へ向かうこととなってしまった。そのため、ブログ上では義経の足取りに従い、南から北に順次記して行くことにする。

2013-08-12_0200.JPG<風呂家>
岩手県遠野市上郷細越

2013-08-12_0201改.jpg源義経とその一行が平泉を抜け出し、遠野に着いた時にとある民家で風呂に入らせてもらった。以来その家の姓を「風呂」と呼ぶようになったと伝えられている。
「風呂家」は岩手県遠野市上郷に今も残っている。家の前に建てられた「伝説義経北行コース」の解説板には「【風呂家】 悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ文治五年(1189年)四月、平泉の高舘において31歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い、義経は、その1年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出たという伝説を作りあげたのである。
世にいう「判官びいき」であろう。
その伝説の一つに”平泉を脱出した義経主従は、赤羽根峠を越えてここまでたどりつき、この家で風呂をたてさせ、入浴した。それ以来この家の姓を「風呂」と呼ぶようになった。”と伝えられている。
また、このあたりの地名は今も「風呂」という。 遠野市」
と書かれていた。

2013-08-12_0170.JPG<横山八幡宮>
岩手県宮古市宮町2-5-1

2013-08-12_0167.JPG岩手県宮古市の「横山八幡宮」のHPには「正治元年(1199年)、源九郎判官義経、平泉を逃れ当宮に参籠。大般若経百巻を奉納した。家臣の鈴木三郎重家は、老齢のためこの地に残り、「近内」というところに住み、当宮の宮守となった。」と記されている。また明治28年(1895年)岩手県宮古市に生まれた郷土史家「佐々木勝三」氏の共著「義経伝説の謎」(けい文社)で氏は「(鈴木三郎)重家は生前、名を重三郎と変名して横山八幡宮の神主となった。そして正治元年(1199年)3月15日、公卿烏丸殿とともに京都に上って、義経の冤罪について訴えたことは前にも述べた。
明和8年(1771年)3月に行われた法霊権現再興の棟札の裏面に、この神社の縁起が書かれている。
それによると、鈴木三郎重家と、その弟亀井六郎重清は紀州藤白村の出身で、熊野の日本一の大霊権現の官家であった大官重高より16代の末流であったが、重家は義経公と前世の契りをかわしていたため、蝦夷国までついて行こうとしたという。それを義経公から、老齢だからおまえは残れ、と止められたそうである。」
と義経生存の裏付け証拠を提示している。

2013-08-12_0163.JPG<久昌寺>
岩手県宮古市田代17-60-2

2013-08-12_0166.JPG岩手県宮古市のHPには「久昌寺」について源氏の一族である源義里がここに居館を構えており、義経一行が立ち寄ったといわれている。と記載している。また、久昌寺に立てられた「伝説義経北行コース」の解説板には「【久昌寺】悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1189年)四月、平泉の高館において三十一才を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北を目指して旅に出た”という伝説を作りあげたのである。
世にいう「判官びいき」である。
その伝説の一つに”源氏の一族である源義里がこの田代に居館を構え、平泉を脱出した義経主従が北へ向かう途中立寄った”と伝えられている。
久昌寺には、源義里が奉納し、長久息災延命をいのったという〇〇が残っている。 岩手県観光連盟」
と書かれている。(「〇〇」は判読不能)

2013-08-12_0126.JPG<鵜鳥神社>
岩手県下閉伊郡普代村25字卯子酉6

2013-08-12_0127.JPG宮古市の北になる普代村に、「義経北行伝説」のゆかりの地がある。当社「鵜鳥神社」もその1つで、地元では当社を「うねどり様」と呼ぶようである。

神社境内に立てられた「伝説義経北行コース」の解説板には「【鵜鳥神社】 悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1189年)四月、平泉の高館において三十一才を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北を目指して旅に出た”という伝説を作りあげたのである。
世にいう「判官びいき」であろう。
その伝説の一つに”平泉を脱出した義経主従は、その途中、この地で七日七夜にわたって海上安全、武運長久、諸願成就”を祈り、藤九郎盛長に命じ社殿を建立し、祭典を執行するよう命じたという”と伝えられている。
義経はこの地で金色の鵜鳥が子を抱いているのを見たとも伝えられているという。 岩手県観光連盟」
と書かれている。


熱田神宮(愛知県) [鞍馬から平泉]

2013713

2013-07-13_0013.JPG源義経(牛若丸;遮那王とも)の元服は、承安(じょうあん)433日(1174)に鞍馬山を抜け出し、奥州平泉の藤原秀衡の元を目指したその途中で行なわれたとされているが、その地がどこであったのか、また本当に平泉への道すがらに行なわれたのかははっきりしていない。
南北朝時代から室町時代初期に成立したとされる「義経記(ぎけいき)」によれば、滋賀県竜王町の「鏡の里」とされているが、一方「平治物語」(13世紀半ばに成立?)では、兄「源頼朝」の実母(父:源義朝の正室)の実家に当たる熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1とされている。
この熱田神宮の境内には、どこにも「義経元服の地」或いは「義経の元服ゆかりの碑」などの記念碑的なものは残されておらず、義経元服の真偽もはっきりしない。境内にあるのは、写真のようなものだけで、正直、チョット拍子抜けしてしまった。

ここからはあくまで私見であるが、義経(牛若丸;正確には遮那王)が鞍馬山を抜け出し奥州平泉を目指したこの時期は、平家全盛の時であり、義経はまだ「罪人」であるため、当然ながら人目を避けての行動となっているはずである。熱田神宮のようなある意味源氏ゆかりの場所には、平家の目も光っていたのではないかと思われる。また、兄頼朝の実母の父がこの熱田神宮の大宮司であったことを考えれば、側室「常盤御前」の子がここで元服をするというのは、少々考え難いとも思われるのだが、如何なものだろうか。


矢の根石(栃木県) [弁慶]

2013年4月28日

2013-04-28_0021.JPG栃木県那須町を通り抜ける古代東山道(義経街道とも関街道ともいう)の路肩には、源義経一行が鎌倉に向けて通り過ぎたという言い伝えが残っている。
さて、義経の一の家臣(子分?)「武蔵坊弁慶」も、当然ながら一行に属してこの地にやって来ている。この一の子分、どうも少々ひょうきん者と言えるのではないだろうか。義経の伝説ある所には、相当高い確率で、その足跡を残している。
当地でも、やはりというか期待通りというか、足跡を残していてくれた。それがこの「矢の根石」である。

2013-04-28_0022.JPG「矢の根石」の説明書きに曰く「矢の根石伝 美野沢地区は、古代東山道(後世、義経街道とも関(せき)街道ともいう)の道筋にあたります。奥州平泉を発った義経一行が、兄頼朝のもとへ向かう途中、この地でのできごとが「追分明神」や「具足岩」をはじめ数多くの義経伝説として語り継がれています。
矢の根石もその一つで、弁慶が矢を取り出し、「わが願い吉ならば、この石に立てよ」と、傍らにあった岩に矢の根を指先にて押し込めば、あら不思議、矢が岩に突き刺さったではありませんか。先々の武運を占って、矢を立てるというしぐさは、占いの一方法で「立つべからずところに立つ」奇跡によって、吉の占いを得ることにあります。伝えられる矢の根石は、道路改修の時に埋められてしまいましたが、当委員会は、弁慶の故事にならって幸運をもたらす「矢の根石」を復元し、義経ゆかりの地を保存することにいたしました。平成二十四年九月 美野沢地区地域づくり委員会」
とのことで、残念ながら伝説の石は残されていないようだ。


義経街道(栃木県)-弐- [源平合戦]

2013年4月28日

2013-04-28_0018.JPG2013-04-28_0019.JPG<沓石(くついし)>

【義経伝説「4」】は義経の乗った馬の足跡が岩に残っている所からこの名がついたとされている。【義経伝説「3」】の「五両沢」からは1kmほどの距離にある。
 

2013-04-28_0020.JPG石(岩?)は義経街道の道沿いにあり、すぐ傍には同名のバス停もあった。
2013-04-28_0017.JPG「義経伝説」の説明板には「やがて、義経一行は追分の山あいを抜けて、やや広い里に出てきました。今は「沓石」と呼ばれるこの里に、大きな石が道の左側に横たわっています。これを沓石といいますが、里の名もこの石からでたのだといわれています。
この石の上に、馬の足跡のようなへこみがあります。これは、義経の乗馬の足跡だといわれています。この沓石の里には、わらじ石とか、義経(または弁慶)が汗ににじんだ衣類などを洗濯したという「たらい石」とかがあったのですが、道路補修のため、今は道の下にうずもれてしまっているということです。これらの石のほか、弁慶が行く先々の武運を占ったという「矢の根石」などもあったと言います。」
と書かれており、この地区の名前にもなっていることが分かる。

2013-04-28_0015.JPG2013-04-28_0014.JPG<滝の宮(たきのみや)>

【義経伝説「6」】は義経一行がここで一休みし、武運を祈ったとされている。上の【義経伝説「3」】「沓石」から約3kmの距離にある。

県道76号から脇道に入るが、この時は県道から宮の祠が見えたため、行き過ぎることはなかった。

2013-04-28_0013.JPG2013-04-28_0012.JPG「義経伝説」の説明板に「大畑を過ぎると山あいは広く広くなり、道の下の流れも三蔵(さんぞう)と呼ばれる水かさのました川になります。みの沢を過ぎた崖のところに小さな祠(ほこら)がありました。義経一行は、残暑の強い秋の陽を避けてここに一休みします。祠のすぐ裏に細い滝がかかり、ちょうど鈴でも鳴らしたようなすがすがしい音をたてて、三蔵の流れへ落ちています。里人はこの滝を「鈴なりの滝」と呼んでいました。祠をめぐる木立(こだち)から崖へかけて「くず」が、葡萄色(ぶどういろ)の花をいっぱいに咲かせてるその葉は珍しく四ツ葉でした。「滝の宮の四ツ葉のくず」として言い伝えられていましたが、いまではその「くず」はなく、ただ伝説としてのこっているだけです。
一休みした義経一行は、滝の宮に武運を祈って、ここを発ちました。」
と書かれていた。

2013-04-28_0008.JPG<御弊石(おんべし)>

【義経伝説「7」】では義経が腰掛けた石「義経の腰掛石」があるそうだが、今となってはどの石がそれなのか分からないため、この辺を「おんべし」と呼んでいるそうである。上の【義経伝説「6」】「滝の宮」から1km強の距離にある。

2013-04-28_0010.JPG県道60号の脇の小高い山の斜面のような所に、この「おんべし」はあった。解説板の説明には、県道からの入り口から「弊石神社」の参道辺りまで、大きな石がゴロゴロとあったようだが、今は所々に面影が見えるだけである。


2013-04-28_0007.JPG「義経伝説」の説明板には「川に沿った道を行くと、すぐ、右手にゴツゴツとした石山が見えました。太い、高い松や桜が、石山をおおうように生い茂っています。上に登ってみると、粗末な石の祠(ほこら)があり、まわりに大きな石がゴロゴロしています。その石のいくつかは、下の畑に転がり落ちていました。ここで義経が腰掛けた石を「義経の腰掛石」と言っていますが、さて、その石はどれなのか分かりません。ここを今、「おんべし」と呼んでいます。 注)おんべし(御弊石) 義経が兄の挙兵に呼応して上る時、武運を祈ってこの岩に御幣を奉ったことによるという。


義経街道(栃木県)-壱- [源平合戦]

2013年4月28日

文治4年(1180)、兄、頼朝が伊豆(静岡県)で平家追討の旗揚げをしたことを聞いた義経は、弁慶ら腹心の部下と共に奥州平泉の地を後にすると、頼朝と合流すべく伊豆を目指した。
栃木県那須町を通り抜ける「義経街道(旧東山道)」には、伊豆に向かう義経主従が、ここを通ったと誇示するように、義経や弁慶ゆかりの地を街道沿いに残している。
本当にここを通ったのか、その真偽は脇に置いておこう。とにかく、僅か10km程の距離の所に、幾つもの「ゆかりの地」が点在しているのである。

ゴールデンウィークの始まりともいえるこの日に、東北道を那須ICまで走り、そこから一路「伊王野」を目指したのだった。

2013-04-28_0031.JPG2013-04-28_0034.JPG<追分明神(おいわけみょうじん)>
栃木県那須郡那須町大字蓑沢1352番

義経街道にある【義経伝説「1」】は、白河の関を抜けて少し行った、現在の福島県と栃木県の県境にある。
「義経伝説」の解説板には次のように書かれている。
「治承4年(1180)8月、兄の源頼朝が伊豆(今の静岡県)に平家追討の旗を挙げたことを、遠く奥州平泉(今の岩手県)で聞いた源義経は、矢もたてもたまらず、藤原秀衡(ふじわらひでひら)にお願いして鎌倉へ上ることにしました。 弁慶・常陸坊海存(ひたちぼうかいそん;一般には「存」ではなく「尊」を使う)、四天王といわれる亀井・片岡・伊勢・駿河をはじめ,あらたに郎党(家来)となった佐藤継信、忠信の兄弟らを従え、奥州路を白河の関へかかります。 白河の関は、その昔は、関東と奥州との境の大切なとりででしたが、義経のころは、もうすでにさびれた山砦にすぎなかったことでしょう。中秋の暑気を残して、陽は赤く豆沢の山に落ちかかっていました。」

2013-04-28_0032.JPGまた「追分明神」は正式には「住吉玉津島神社」というようである。那須町教育委員会の説明書きによれば、「「境の明神」ともよばれている。東山道の関東、東北の境にある古い峠神である。古くは「下野」と「陸奥」の両国分の二社が並立していたともいわれるが、今あるのは関東分であり「関東宮」の名もある。 創立は古く延暦10年(791)坂上田村麻呂が、征夷の途次に勧請したものと伝えている。寄居字唐門の「境の明神」と共に、道中安全の神として、古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。」とされている。


2013-04-28_0027.JPG2013-04-28_0028.JPG<月夜見山(つきよみやま)>

【義経伝説「2」】は、「追分明神」から更に南に約1kmの所にある。解説板には「陸奥(むつ)と下野の骨橋の追分明神に着いたころは、もう夕もやが境内の杉木立に深くたちこめていました。義経一行は、その夜をここで明かすことにしました。さえわたった明けの夜空に星が映えてきらめき、まわりの山々が真黒く浮きあがり、それから、東の山の端がやがて明るくなりました。 「月をおがもうではないか」 義経はわずかの共を連れて、東の山に登りました。こうこうと照る月に手を合わせて、義経は、これから行く先々の幸いを祈りました。里人は、やがて、この山を月夜見山と呼ぶようになりました。」とあった。
しかし、実際には写真のように、どこに山があるのかさえよくわからない状態だった。


2013-04-28_0025.JPG2013-04-28_0023.JPG<具足岩・五両沢(ぐそくいわ・ごりょうさわ)>

【義経伝説「3」】は「月夜見山」から700mほど南にある。解説板には以下のように書かれていた。
「夜が明けると、義経一行はすぐ追分明神をたちます。さわやかな初秋の朝の追分の山道は、細く、なだらかに谷川に沿った崖のふちをとおっています。ゆうべ、月をおがんで登った月夜見山は、今朝はもやにつつまれて、ふもとだけしか見えませんでした。道の右側は、そそり立つ深い山でところどころ道をおおうように切り立って岩肌が現れています。
弁慶が、「具足(よろい)のようだナ」とみんなを振り向いて大きな声で言いました。なるほど、よろいかぶとの「しころ・くさずり」のように岩が何枚も連なり、重なり合っています。里人はあとあと、この岩肌を「具足岩(ぐそくいわ)」と呼ぶようになりました。
20m位先に、すんだ谷川が流れています。山あいの沢々かわしみでてく水は、きれいで冷たく、手にすくって口にふくめばさっぱりとすがすがしい。「五両の金を出しても買うていきたいような水だなア」などと、いう者もいるほどでした。里人は、ここを五両沢と呼ぶようになりました。」
残念ながら、今回「五両沢」を発見することができなかったので、本当にそのような沢だったのかは確認できていない。もしかすると、既に彼の「沢」は枯れてしまったのかも知れないし、また流れるコースを変えてしまったのかも知れない。


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