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首途(かどで)八幡宮(京都府) [鞍馬から平泉]

2011年2月25日

1102250015.JPG今回は京都府京都市上京区智恵光院通今出川上ル桜井町にある”源義経ゆかりの地”に行って来た。1102250018.JPG
その地、首途(かどで)八幡宮のHPに「今から約830年前、 高倉 (たかくら) 天皇 承安 (じょうあん)年間(西暦1174年)に、 源九郎義経 (みなもとのくろうよしつね ) は、牛若丸時代、 金売吉次 ( かねうりきちじ ) の屋敷であったこの地で、鞍馬山を抜け出して吉次と落ち合い、屋敷近くにあった「内野八幡宮」に奥州平泉の 藤原秀衡 ( ふじわらひでひら ) のもとへ出発するにあたり、道中安全を祈願して出立したという。「首途 ( かどで ) 」とは「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。」と記載が有る。
この金売吉次は、鞍馬山にいた牛若丸(源義経)に、「藤原秀衡が鞍馬山に預けられた義朝の子に会いたがっていることや、源平の戦いがあれば秀衡所有の十八万騎が源氏に味方することなどを語り、奥州に思いを向かせた。(源義経物語)」1102250017.JPG張本人であり、また義経郎党の1人「堀景光」その人であったという説もある。また当時の奥州は1つの独立国家状態であり、奥州藤原氏の朝廷に対する出先機関の役目を負っていたのがこの金売り吉次で、元々は武士だったという説などもあるようだ。

尚、江戸時代の医者で儒学者の”黒川道祐”の書「雍州府志」では”金売吉次”を”金売橘次”と記しているが、どちらが正しいのかは定かではない。

1102250021.JPGこの首途八幡宮は「もとの名を「 内野 ( うちの ) 八幡宮」と呼び、宇佐八幡宮より御神霊を勧請し祀られた社である。(首途八幡宮のHPより)」とされているようである。

他のブログなどを調べてみると、当八幡宮の存在や義経との関係を知らない京都の方も少なくないようだ。


 


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