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熱田神宮(愛知県) [鞍馬から平泉]

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2013-07-13_0013.JPG源義経(牛若丸;遮那王とも)の元服は、承安(じょうあん)433日(1174)に鞍馬山を抜け出し、奥州平泉の藤原秀衡の元を目指したその途中で行なわれたとされているが、その地がどこであったのか、また本当に平泉への道すがらに行なわれたのかははっきりしていない。
南北朝時代から室町時代初期に成立したとされる「義経記(ぎけいき)」によれば、滋賀県竜王町の「鏡の里」とされているが、一方「平治物語」(13世紀半ばに成立?)では、兄「源頼朝」の実母(父:源義朝の正室)の実家に当たる熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1とされている。
この熱田神宮の境内には、どこにも「義経元服の地」或いは「義経の元服ゆかりの碑」などの記念碑的なものは残されておらず、義経元服の真偽もはっきりしない。境内にあるのは、写真のようなものだけで、正直、チョット拍子抜けしてしまった。

ここからはあくまで私見であるが、義経(牛若丸;正確には遮那王)が鞍馬山を抜け出し奥州平泉を目指したこの時期は、平家全盛の時であり、義経はまだ「罪人」であるため、当然ながら人目を避けての行動となっているはずである。熱田神宮のようなある意味源氏ゆかりの場所には、平家の目も光っていたのではないかと思われる。また、兄頼朝の実母の父がこの熱田神宮の大宮司であったことを考えれば、側室「常盤御前」の子がここで元服をするというのは、少々考え難いとも思われるのだが、如何なものだろうか。


飯縄寺(千葉県) [鞍馬から平泉]

2013年2月8日

「源義経」という人物の行動には不明な点が多々あり、移動の際のルートなども不明ということが多い。幼少期に預けられた「鞍馬寺」を抜け出し、奥州平泉の藤原氏の所まで行った時も、どのようなルートで京都から平泉まで行ったのか明らかになっていない。更には、同行者がいたのかいなかったのか、いたとするならそれは誰だったのか(通説では奥州の金商人「金売吉次」の隊商に紛れて行ったとされる。しかし「金売吉次」そのものの存在を疑う説もあるようだ。)。今も明らかにはなっていない。

2013-02-08_0012.JPG今回紹介する「飯縄寺」は、私の別ブログ「雑記帳」の「房総の彫刻師-波の伊八-」でも紹介しているように、千葉県いすみ市(房総半島)にある慈覚大師(円仁)が開祖と言われる由緒正しきお寺である。
ここに義経は、平泉に向かう途中で立寄ったとされている。

<飯縄寺(いづなでら)>千葉県いすみ市岬町和泉2935

2013-02-08_0013.JPGご存知のように、牛若丸(義経)が京の鞍馬寺で天狗に剣術を習ったという話は有名だが、後に、2013-02-08_0018改.jpg鞍馬寺を出て奥州平泉に向かう際に、鞍馬の「天狗」に「上総の国の飯縄寺に知合いの天狗がいるから寄ってみるがいい。」と言われ、当寺に立寄ったという伝説がある。また、”いすみ市立長者小学校”のHPによれば、「昔,夷隅川には大きなナマズがすんでいて,村人から食べ物やお酒,若い娘をみつがせて,要求に応じないと暴れて川の水をあふれさせたり,山津波を起こすというとんでもなく悪いヤツでした。そこに京都から奥州(岩手県南部)に行く途中に清水寺に立ち寄った牛若丸と弁慶がその話を聞きます。清水寺の大吊り鐘を運ばせ,弁慶の怪力で大ナマズにかぶせ,みごとに退治します。鐘を運んだ人は「大鐘」という姓をもらい,大ナマズを鐘ごと深く沈めたその場所は,現在の轟橋のそばで「鐘ガ淵」と呼ばれています。(太東岬物語)また、2013-02-08_0022改.jpg牛若丸と弁慶は和泉の飯縄寺に宿泊し,弁慶は牛若丸が京都の鞍馬寺で天狗を相手に修行した様子を絵馬に描いたそうです。絵馬は残っていませんが,弁慶と牛若丸の絵馬や天狗の面があり,飯縄寺は「天狗のお寺」と呼ばれています。」と紹介されている。



鏡の里(滋賀県) [鞍馬から平泉]

2011年4月16日

1104160011.JPG源義経が、鞍馬を出て奥州平泉を目指したその途中で、”自ら元服を行った地”とされる「鏡の里(滋賀県竜王町)」に行って来た。
”義経元服の地”はもう一つ、名古屋の「熱田神宮」もあるが、平泉への途中での元服となると当地の方が信憑性があるように思われる。何れにしても確たる証拠はないようである。
(義経の生涯を記したとされる「義経記」では、”元服”は当地から更に進んだ「熱田神宮」で行ったとしている。これは熱田神宮の大宮司の娘が義経の父「源義朝」の正室で、兄頼朝(異母兄)の母であったという縁からだとしている。2012年2月29日追記) 

竜王町観光協会」のHPから引用すると、
「鞍馬でただ一途に平家滅亡を心に誓って剣術の稽古に励んでおりました牛若丸は、金売り吉次より奥州の藤原秀衡が会いたがっているという事を聞き機運到来と喜び勇んで鞍馬を後にいたしましたが、鏡の宿に入ってまもなく表で早飛脚の声をよくよく聞けば鞍馬よりの追手か平家の侍たちか、稚児姿(寺院で召し使われた少年の姿)の牛若を探しているではございませんか。
これは我等のことに違いない。このままの姿では取り押さえられてしまいます。
急ぎ髪を切り烏帽子を着けて東男(あずまおとこ)に身を窶(やつ)さねばと元服することを決心するのでございました。」
ということで当初よりの予定で”元服”したのではなく、止むに止まれぬ事情からのことだったということだ。
そして、ここ「鏡の里」には幾つかの”義経ポイント”が存在するが、何れも狭い宿場町の中なので、僅か30-40分ほどで見て廻ることができた。

 

 

下の説明は、一部「滋賀県竜王町観光協会」の説明文より引用した。

1104160006.JPG「元服池」 ここの水を使って元服したとされている。1104160005.JPG

1104160008.JPG


1104160038.JPG鏡神社」 鏡池(元服池)の石清水を用いて前髪を落とし元服をしたと伝えられている。1104160022.JPG
牛若丸16歳の時で、自らが鳥帽子親となって名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と名乗り、源氏の祖である新羅大明神(しらぎだいみょうじん)と同じ天日槍(あめのひぼこ)を祀る「鏡神社」へ参拝し、源氏の再興と武運長久を祈願した。(源氏は新羅系、平家は百済系と言われている)

 

1104160013.JPG「鳥帽子掛けの松」 義経が元服後に「鏡神社」に参拝した折に、烏帽子をその枝にかけたとされることから「鳥帽子掛けの松」と呼ばれるようになった。1104160015.JPG

1104160024.JPG「八幡神社」 「鏡神社」への参道右手にある小さな社で、応神天皇と源義経が合祀(ごうし)されているとのこと。

1104160026.JPG「白木屋」 承安4年3月3日に京都の鞍馬寺より奥州下向の途中、近江の「鏡の宿」(滋賀県竜王町)に着いた牛若丸一行は、当時の宿駅の長(おさ)であった澤弥伝(さわやでん」の「白木屋」の旅籠に泊まった。1104160027.JPG

1104160031.JPG「烏帽子屋五郎大夫」 白木屋の近くで烏帽子を折る烏帽子屋五郎大夫(えぼしやごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子を注文した。左折(ひだりおり)とは烏帽子の頂を左方に折り返して作ることで、源氏は左折を用い、平家は右折のものを用いていた。しかし平家の全盛期である現在、源氏の左折の烏帽子は御法度(ごはっと)で五郎大夫もためらうが牛若のたっての願いと、幼い人が用いるものなれば平家よりのお咎(とが)めもあるまいと引き受けた。烏帽子の代金にと牛若は自分の刀を置いていったが、それは古年刀(こねんとう)で源氏重代の刀剣だった。

以上のように、非常に詳しい当地での出来事が解説されているが、逆に詳し過ぎると共に、一連の流れがスムーズ且つ出来過ぎのようにも思える。
当地に限らず、全国に残る「義経伝説」の多くがそうであるように、もしかすると旅芸人たちが脚色した物語が伝わっているのかも知れない。真偽の程は不明である。

(2011年4月23日 他の記事と統一するため、当記事のタイトルを修正しました。)

 


首途(かどで)八幡宮(京都府) [鞍馬から平泉]

2011年2月25日

1102250015.JPG今回は京都府京都市上京区智恵光院通今出川上ル桜井町にある”源義経ゆかりの地”に行って来た。1102250018.JPG
その地、首途(かどで)八幡宮のHPに「今から約830年前、 高倉 (たかくら) 天皇 承安 (じょうあん)年間(西暦1174年)に、 源九郎義経 (みなもとのくろうよしつね ) は、牛若丸時代、 金売吉次 ( かねうりきちじ ) の屋敷であったこの地で、鞍馬山を抜け出して吉次と落ち合い、屋敷近くにあった「内野八幡宮」に奥州平泉の 藤原秀衡 ( ふじわらひでひら ) のもとへ出発するにあたり、道中安全を祈願して出立したという。「首途 ( かどで ) 」とは「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。」と記載が有る。
この金売吉次は、鞍馬山にいた牛若丸(源義経)に、「藤原秀衡が鞍馬山に預けられた義朝の子に会いたがっていることや、源平の戦いがあれば秀衡所有の十八万騎が源氏に味方することなどを語り、奥州に思いを向かせた。(源義経物語)」1102250017.JPG張本人であり、また義経郎党の1人「堀景光」その人であったという説もある。また当時の奥州は1つの独立国家状態であり、奥州藤原氏の朝廷に対する出先機関の役目を負っていたのがこの金売り吉次で、元々は武士だったという説などもあるようだ。

尚、江戸時代の医者で儒学者の”黒川道祐”の書「雍州府志」では”金売吉次”を”金売橘次”と記しているが、どちらが正しいのかは定かではない。

1102250021.JPGこの首途八幡宮は「もとの名を「 内野 ( うちの ) 八幡宮」と呼び、宇佐八幡宮より御神霊を勧請し祀られた社である。(首途八幡宮のHPより)」とされているようである。

他のブログなどを調べてみると、当八幡宮の存在や義経との関係を知らない京都の方も少なくないようだ。


 


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