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源九郎稲荷神社、多武峰 他(奈良県) [京から平泉]

2012年2月19日

義経郎党が大物浦から西国へ向かおうと船出し、大時化のため難破して和泉(大阪府南部)の辺りに漂着後、逃走先を吉野山(奈良県)に切り替え、そして当地などを経由しながら吉野山に入って行ったと推測される。
今回は、奈良県という義経伝説が多く残る地域の中で、比較的平野部の土地を選んで訪問して来た。 

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源九郎稲荷神社(大和郡山市)
祭神: 保食神(うけもちのかみ)
沿革: 歌舞伎・文楽「義経千本桜」でお馴染みの「源九郎狐」(白狐) を神の使いとしています。今より八百年前 源九郎判官義経は鎌倉の征夷大将軍である兄 源頼朝に協力し「源氏」に勝利をもたらしました。
その後、兄頼朝と仲違いし、奈良の吉野山を経て東北の平泉へ落ち逃れるおり、この武運強い義経を陰ながら守って来た武将 佐藤忠信は、この神社の「白狐」の化身だったのです。そこで義経は奥羽に下るとき、この白狐と別れる際自分の名である「源九郎」の名を与え「源九郎狐」と名のることを許しました。
その後、豊臣の時代には豊臣秀吉の弟で郡山犬伏城の城主である豊臣秀長は築城にあたって、この源九郎稲荷をお城の守護神と定めました。
その後も歴代城主の柳澤家の殿様や町家にも信仰深く現在に至るまでこの神社を手厚く崇敬されてきました。それゆえ日本三大稲荷の一つとされています。(源九郎稲荷神社略記より)
所在地: 〒639-1144 奈良県大和郡山市洞泉寺町15

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「源九郎稲荷神社」は”近鉄郡山駅の南西約500M”とWikipediaにも解説されているように、郡山城址からでも15-20分程歩いて行ける距離にあった。その参道の入り口には写真のような標識もあり、比較的分り易い所にあるが、思いの外細い参道のため、一瞬戸惑うかも知れない。また、参道の正面は”洞泉寺”の入り口となっており稲荷の入り口はその左隣となっているため、参道から直接は見通しがきかない配置になっている。これは私の想像だが、昔は洞泉寺境内に稲荷もあったのではないだろうか。或いは逆かも知れない。
日本三大稲荷”の一つと称するだけあり、通常目にする稲荷とは違い、結構立派な造りになっていた。専属の社務所もあり、しっかり管理運営されているようである。
さて、当地「源九郎稲荷神社」には、義経郎党が直接立ち寄った様子はなかった。神社の解説でもそのような文言は見られない。あくまで推測だが、当地は「義経千本桜」或いはその原型となる民話等にあやかって信仰されて来たのではないだろうか。当神社の由緒を否定するつもりは毛頭ないが、神社略記に出て来る「佐藤忠信」は、義経が源氏旗揚げで兄 頼朝の軍に合流するため平泉を出る際に、
藤原秀衡の命で佐藤継信、忠信兄弟が義経に同道させられたのが史実とされている。
何れにしても、夢多き物語が現代も生きているということに、大いに楽しさを感じたのだった。

 

「多武峰(とうのみね)十字坊」
吾妻鏡」によれば、文治元年(1185年)11月22日、義経は隠れていた吉野山から多武峰に向かい、「談山神社(たんざんじんじゃ)」の祭神「藤原鎌足」に祈請しようとした。ここで、南院内の藤堂房主「十字坊」に手厚く饗されたとされている。
因みに談山神社の前にある「多武峰観光ホテル」のHPによれば、この「十字坊」なる人物は、義経がまだ牛若丸と称していた頃、預けられた鞍馬寺で一緒に修行した仲であったという話である。
「多武峰」とは、当時「談山神社」を始め幾つかの神社仏閣が存在した場所であったようだが、現在は「談山神社」のみ存在するようである。
1202190030.JPG1202190028.JPG談山神社(桜井市)
祭神: 藤原鎌足
略記: 舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。
この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。
たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。
後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。
1202190025.JPG天智天皇八年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。
藤原の姓はここに始まります。
鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。
大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。(談山神社HPより)
所在地: 
〒633-0032 奈良県桜井市多武峰319

多武峰は桜井市に入っているが、その場所はかなり山の中で、以前は山道を苦労して行ったようである。最近は「桜の名所」ということもあり、道が整備され、車でも簡単に行くことができるようになったとのことである。
談山神社の前にある多武峰観光ホテルの「義経鍋」は何度か受賞したりしている評判の料理とのことだった。

 

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義経の七つ石(大和高田市)
大和高田市の大中公園の直ぐ側に「春日神社」があり、その境内に座椅子に調度良さそうな石が7つ円陣のように並んでいる。脇にある説明書きには「義経主従がこれから先の苦労を思いながら時を過ごした腰掛け石」と解説してあった。この解説、語り部の話し口調で、非常に読み易く解説してあり、面白可笑しく読むことができるが、少々史実とされている内容と異なる部分もあり、それが故に物語調で、この地に伝わる「伝説」を伝えているのかも知れない。

1202190038.JPG特に史実と異なると思われたのは、「静御前」に関する下りである。当地が静御前の母親(磯野禅尼)の住む磯野村の直ぐ側だからで、静御前を片岡経春同道にて母親の元に行かせたとあるが、現状”史実”とされているものでは、静御前は吉野山の手前で義経と別れ、山を下って京に戻る途中でお付きの者たちに金銭や衣類、義経からもらった形見の品々を全て持って行かれるというのである。
”史実”とされる話も、元になっているのは「吾妻鏡」が殆どと思われ、「吾妻鏡」自体も幾つかのバージョンがあり、それぞれ少しずつ記載が異なっているとのことから、信憑性はあまり高くないが、他に史実を語る記録がないため、同書を頼らざるを得ないのが実状のようである。

 


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