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亀割子安観音、山神社(山形県) [京から平泉]

2012年8月17日

義経主従が都落ちし奥州平泉の地へ逃れる途中の出来事として、当地「瀬見温泉」で、同行の「北の方(義経の正室)」がお産したとする伝説が残されている。
鎌倉幕府の正史として有名な「吾妻鏡」では、勿論この辺の記載は一切ない訳だが、平泉の衣川館(高館)で藤原泰衡に攻められて義経が自害する時に、妻(北の方?)と子(女の子)を刺殺し、その後に自害したという記述がある。当地に残された伝説が史実に即しているか否かの判断は別として、どこかの時点で義経主従と北の方が合流して平泉に入った可能性はある。所で、この「北の方」は一体誰なのか・・・というのが、未だ明らかになっていない。「北の方」には3つ程説があり、「吾妻鏡」の記述を根拠として源頼朝の御家人「河越重頼」の女(娘)「郷御前」とする説、「源平盛衰記」に記述される「大納言平時忠の娘」とする説、「義経記」に記述される「久我大臣の娘」とする説である。しかし「吾妻鏡」が史実に基いているとの認識から、「河越重頼の女(娘)」とする説が有力であるようだ。 (「久我(こが)大臣」とは「源通親」とする説があるが定かではない。)

2012-08-17_0065.JPG<亀割子安観音>
北の方がお産をした際に加護のあった観音様を祀っている。子授かりと安産の神として信仰されている。(瀬見温泉散策マップより)

北の方がお産したのは、この観音より山に2km程入った「奥の院」で、この時生まれた子が「亀若丸」と言われているとのこと。


 

2012-08-17_0070.JPG<山神社>
産屋を建て、北の方がしばらく養生した所。後に村人が山神社の祠を建てた。弁慶が笈(おい)を掛けて休んだ桜「笈(おい)掛け桜」が近くにあったといわれている。(瀬見温泉散策マップより)

 



指月橋(神奈川県) [京から平泉]

2012年7月29日

神奈川県川崎市多摩区の菅仙谷という所に、義経主従が平泉に落延びる道すがらの伝説地がある。この付近(同市麻生区も含む)は、他にも”義経”にまつわる伝説の地が多くあり、一説には、義経の家来四天王の一人「亀井六郎重清(かめいろくろうしげきよ)」の居城「亀井城」城下であったことに由来するという話もある。

<指月橋>
2012-07-29_0169.JPG指月橋の袂に立てられた「小沢城址里山の会」の説明「指月橋の物語」には、次のような説明が記されている。「皆さんが何気なく渡っているこの橋にも歴史の一コマが秘められております。これは、文治二年(1186年)今から八百五十年前の出来事に由来します。
2012-07-29_0172.JPG皆さんもご承知の通り義経と弁慶たちは、義経の兄である源頼朝に追われる身となりました。それは、一ノ谷の戦いで平家を痛め付け、壇ノ浦で滅ぼした功績により、後白河法皇から検非違使の位(盗賊の逮捕・風俗の取り締まり・非法の弾圧に当たる任務・現在の県警本部長に相当する位)を授かりました。これが頼朝の耳に入り、兄の許しも得ず平家を滅ぼし、朝廷より過分な位まで授かった事への怒りをかってしまったのです。そこで頼朝は、「義経、弁慶どもを捕えよ」という布令を出したのです。そうとは知らぬ義経達は、京から鎌倉を目指していました。しかし、途中の静岡あたりでその事に気付きました。そこで鎌倉へは向かわず、義経が幼い頃より青年時代までを過ごした岩手県の藤原秀衡の元に逃れることにしました。その道すがら一夜の宿を
寿福寺(川崎市多摩区菅仙谷1-14-1)に求めてこの橋まで来ました。しかし、橋板が朽ちて穴があいていました。(私が十歳、つまり昭和九年頃は、直径十センチ位の松の丸太が敷き詰められていました)このまま馬に乗って渡ったのでは馬の足がはまって骨折してしまうため馬から降りて点検することにしました。ふと夜空を見上げると満月が皓々と輝いていました。その満月を指して「今宵も良い月じゃのー」と言ったかどうか定かではありませんが、指月橋の指月とはまさにそれなのです。(小沢城址里山の会 広報担当 菅の語りべ 宮崎;平成十三年四月十日)」
解説の内容では、少々現在の歴史解釈と異なる部分があるが、それはさておき、文責の「小沢城址里山の会」の「小沢城」と、先に記した「亀井六郎」の「亀井城」との関係は定かではない。

地図から分かるように、場所はJR稲田堤もしくは京王稲田堤からが近い。住宅地の中にあり、用水路のような整備された小さな川に架けられた橋で、うっかりすると見過ごす可能性もある。


鼠ケ関(念珠関)(山形県) [京から平泉]

2012年5月2日

1205020016.JPG1205020014.JPG義経主従が都を落ちて奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらひでひら)の所まで、どのように行ったかは定かではない。そのような中で今に伝わる伝説が、今回ご紹介する「鼠ヶ関(ねずがせき)」(念珠関)である。当地は、日本海に面した新潟県と山形県の県境で、山形県側にある。その直ぐ傍に「弁天島」という、現在は海に突き出た岬のような所に、義経主従が船で到着し上陸したとされているようである。「鼠ヶ関」の解説版には『「義経記」の義経一行奥州下りの鼠ヶ関通過の条は、歌舞伎の「勧進帳」をおもわせるごとき劇的場面として描かれている。また、当地方には次のような物語が伝えられている。義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来るが、馬下からは船で海路をたどり鼠ヶ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過した。そして、関所の役人の世話をする五十嵐治兵衛に宿をもとめ、長旅の疲れをいやし、再び旅立って行ったという。』との記載がある。又、(現状の)関の入り口には「勧進帳の本家」と書かれている。歌舞伎「勧進帳」と言えば、その舞台は「安宅関」とされているが、実はその元となった逸話はこの「鼠ヶ関」での出来事だというのである。当地の「本家」主張の根拠は、「義経記(ぎけいき)」によるものと思われる。

1205020004.JPG1205020001.JPGさて、「鼠ヶ関」の直ぐ傍にある「弁天島」というは、漁港の端とも言うべき所に「弁天島」の石柱と共に厳島(いつくしま)神社がある。余談だが「厳島神社」(安芸の宮島)は平家一門の氏神として、平清盛が特に崇めた神社と「平家物語」に出て来ている。もう一つ余談だが、では源氏の氏神は?と言うと、京都府八幡市にある「石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)」とされている。
「弁天島」には特にこれと言った義経に係わる逸話は標記されていなかったが、2005年に放送されたNHK大河ドラマ「義経」を記念して「源義経ゆかりの地」なる碑が厳島神社境内に建てられていた。因みにこの碑は、大河ドラマ放送終了後に作られたようでまだ新しい物であった。当初この碑を見つけた時、私はこの地での撮影を記念する物かと勘違いしてしまった。


鎧掛けの松(大阪府) [京から平泉]

2012年3月10日

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義経が京を逃れ、大物浦(兵庫県)から西国に向かおうとした時、時化のため難破して和泉国に流れ着いた。ここから吉野山(奈良県)に逃れる途中、四天王寺で休んだ際に、近くにあった松の木に鎧を掛けた所から「鎧掛けの松」の名が付いたとされる。

しかし、この逸話も「鎧掛けの松」の所などに解説されている訳ではないので、確かなことは不明である。

 


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多くの方がブログ等で述べているが、写真からも分かる通り、どう見ても800年以上経つ松の木とは思えない。解説等が一切ないため憶測の域を出ないが、後年、それも昭和期位に植えられたものと考えられる。松の木の所に立てられた看板の日付が「1984年11月2日」となっていることから、この時植樹されたのかも知れない。


源九郎稲荷神社、多武峰 他(奈良県) [京から平泉]

2012年2月19日

義経郎党が大物浦から西国へ向かおうと船出し、大時化のため難破して和泉(大阪府南部)の辺りに漂着後、逃走先を吉野山(奈良県)に切り替え、そして当地などを経由しながら吉野山に入って行ったと推測される。
今回は、奈良県という義経伝説が多く残る地域の中で、比較的平野部の土地を選んで訪問して来た。 

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源九郎稲荷神社(大和郡山市)
祭神: 保食神(うけもちのかみ)
沿革: 歌舞伎・文楽「義経千本桜」でお馴染みの「源九郎狐」(白狐) を神の使いとしています。今より八百年前 源九郎判官義経は鎌倉の征夷大将軍である兄 源頼朝に協力し「源氏」に勝利をもたらしました。
その後、兄頼朝と仲違いし、奈良の吉野山を経て東北の平泉へ落ち逃れるおり、この武運強い義経を陰ながら守って来た武将 佐藤忠信は、この神社の「白狐」の化身だったのです。そこで義経は奥羽に下るとき、この白狐と別れる際自分の名である「源九郎」の名を与え「源九郎狐」と名のることを許しました。
その後、豊臣の時代には豊臣秀吉の弟で郡山犬伏城の城主である豊臣秀長は築城にあたって、この源九郎稲荷をお城の守護神と定めました。
その後も歴代城主の柳澤家の殿様や町家にも信仰深く現在に至るまでこの神社を手厚く崇敬されてきました。それゆえ日本三大稲荷の一つとされています。(源九郎稲荷神社略記より)
所在地: 〒639-1144 奈良県大和郡山市洞泉寺町15

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「源九郎稲荷神社」は”近鉄郡山駅の南西約500M”とWikipediaにも解説されているように、郡山城址からでも15-20分程歩いて行ける距離にあった。その参道の入り口には写真のような標識もあり、比較的分り易い所にあるが、思いの外細い参道のため、一瞬戸惑うかも知れない。また、参道の正面は”洞泉寺”の入り口となっており稲荷の入り口はその左隣となっているため、参道から直接は見通しがきかない配置になっている。これは私の想像だが、昔は洞泉寺境内に稲荷もあったのではないだろうか。或いは逆かも知れない。
日本三大稲荷”の一つと称するだけあり、通常目にする稲荷とは違い、結構立派な造りになっていた。専属の社務所もあり、しっかり管理運営されているようである。
さて、当地「源九郎稲荷神社」には、義経郎党が直接立ち寄った様子はなかった。神社の解説でもそのような文言は見られない。あくまで推測だが、当地は「義経千本桜」或いはその原型となる民話等にあやかって信仰されて来たのではないだろうか。当神社の由緒を否定するつもりは毛頭ないが、神社略記に出て来る「佐藤忠信」は、義経が源氏旗揚げで兄 頼朝の軍に合流するため平泉を出る際に、
藤原秀衡の命で佐藤継信、忠信兄弟が義経に同道させられたのが史実とされている。
何れにしても、夢多き物語が現代も生きているということに、大いに楽しさを感じたのだった。

 

「多武峰(とうのみね)十字坊」
吾妻鏡」によれば、文治元年(1185年)11月22日、義経は隠れていた吉野山から多武峰に向かい、「談山神社(たんざんじんじゃ)」の祭神「藤原鎌足」に祈請しようとした。ここで、南院内の藤堂房主「十字坊」に手厚く饗されたとされている。
因みに談山神社の前にある「多武峰観光ホテル」のHPによれば、この「十字坊」なる人物は、義経がまだ牛若丸と称していた頃、預けられた鞍馬寺で一緒に修行した仲であったという話である。
「多武峰」とは、当時「談山神社」を始め幾つかの神社仏閣が存在した場所であったようだが、現在は「談山神社」のみ存在するようである。
1202190030.JPG1202190028.JPG談山神社(桜井市)
祭神: 藤原鎌足
略記: 舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。
この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。
たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。
後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。
1202190025.JPG天智天皇八年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。
藤原の姓はここに始まります。
鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。
大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。(談山神社HPより)
所在地: 
〒633-0032 奈良県桜井市多武峰319

多武峰は桜井市に入っているが、その場所はかなり山の中で、以前は山道を苦労して行ったようである。最近は「桜の名所」ということもあり、道が整備され、車でも簡単に行くことができるようになったとのことである。
談山神社の前にある多武峰観光ホテルの「義経鍋」は何度か受賞したりしている評判の料理とのことだった。

 

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義経の七つ石(大和高田市)
大和高田市の大中公園の直ぐ側に「春日神社」があり、その境内に座椅子に調度良さそうな石が7つ円陣のように並んでいる。脇にある説明書きには「義経主従がこれから先の苦労を思いながら時を過ごした腰掛け石」と解説してあった。この解説、語り部の話し口調で、非常に読み易く解説してあり、面白可笑しく読むことができるが、少々史実とされている内容と異なる部分もあり、それが故に物語調で、この地に伝わる「伝説」を伝えているのかも知れない。

1202190038.JPG特に史実と異なると思われたのは、「静御前」に関する下りである。当地が静御前の母親(磯野禅尼)の住む磯野村の直ぐ側だからで、静御前を片岡経春同道にて母親の元に行かせたとあるが、現状”史実”とされているものでは、静御前は吉野山の手前で義経と別れ、山を下って京に戻る途中でお付きの者たちに金銭や衣類、義経からもらった形見の品々を全て持って行かれるというのである。
”史実”とされる話も、元になっているのは「吾妻鏡」が殆どと思われ、「吾妻鏡」自体も幾つかのバージョンがあり、それぞれ少しずつ記載が異なっているとのことから、信憑性はあまり高くないが、他に史実を語る記録がないため、同書を頼らざるを得ないのが実状のようである。

 


犬岩、千騎ケ岩(千葉県) [京から平泉]

2012年1月6日

千葉県の東端、犬吠埼付近に伝わる義経伝説の地として「犬岩」「千騎ヶ岩」などがある。その他、銚子付近としては数ヶ所に及ぶようだが、今回は「犬岩」「千騎ケ岩」の2箇所を訪問した。
伝説では、源義経が謀反人として鎌倉幕府(頼朝)から追われ、平泉(岩手県)の藤原秀衡を頼って逃亡する途中に、この地に立ち寄ったとするものである。

1201060089.JPG先ず「犬岩」の伝説は次の通りである。
「吉野山(奈良県)を追われた義経主従は、昔、義経が鞍馬から平泉に向かうきっかけを作った奥州商人(奥州藤原家の家臣とも言われる)の金売吉次に、再び導かれて伊勢国から船で房総の地までやって来た。主従の中には「若丸」という犬もいた。
房総の地についた時、主従の1人、片岡八郎弘経(または弘綱、または為春)の兄、片岡常春(「吾妻鏡」では片岡太郎常春、片岡次郎常春など)が上総国三崎庄の領主であったことから、その常春の館に世話になることになった。
夜になって義経は、同行の犬「若丸」が異常な吠え方をするのに気が付き、館の庭に出てみると「若丸」の吠えている先に、平家の亡霊、平宗盛以下幾人もの鎧武者が立っていることに気付いた。義経は「死んで我に仇なすか」と手にした太刀で亡霊に斬り付け、亡霊は消え去った。しかしその時から「若丸」は元気がなくなり、餌も食べなくなってしまった。
1201060090.JPG平家の亡霊を鎮めるためやって来た僧は「平家の亡霊が、若丸に乗り移り、仇をしているため、若丸を供として連れて行ってはいけない」という注意した。義経は止む無く「若丸」を残して奥州に発つことにし、「若丸」を浜に残すと、片岡常春が用意した船に乗り込んだ。
「若丸」は自分が置いて行かれたことに気付くと、義経主従の後を追い、船を目指して泳ぎだした。しかし、船に追い付くことができないと分かると波間の岩に泳ぎ着き、その上で義経主従に向かって、悲しげに吠え続けた。その声は7日7晩続き、やがて「若丸」は岩になったという。」
というもので、この時の鳴き声が遠く聞こえたことから「犬吠埼」の地名がついたとされる説もあるようである。

1201060080.JPG一方「千騎ケ岩」については「義経が千騎の兵を連れて隠れた場所」とされている。しかし、岩についての解説の看板には、義経についての伝説等は一切触れられていなかった。


「犬岩」「千騎ケ岩」共に、義経が京から平泉に逃げる途中、当地に立ち寄ったとするものだが、陸路での当地立ち寄りは鎌倉(兄、源頼朝)の勢力範囲であるため、非常にリスキーである。もし当地に立ち寄ろうとするなら、海路からということになるが、現状海路説はメジャーではない。
先に記載の「犬岩伝説」の中で、「義経主従は伊勢国(三重県)の港から船で逃げて来た」としていた。義経の逃亡経路については、諸説ある中でもう1つ、弁慶の父親も言われる熊野別当湛増」の手引きで、紀伊国(和歌山県)の勝浦辺りから太平洋を北上したとする説もある。しかしながら、何れもメジャーな説とはなっていない。


尼御前岬(石川県) [京から平泉]

2011年9月10日

1109100035.JPG「安宅関」について調べている内に、偶然にも「尼御前岬(石川県加賀市)」が”義経ゆかりの地”であることを発見した。

1109100026.JPG場所は石川県加賀市の北陸自動車道「尼御前SA」から徒歩でも行ける距離の岬である。無料の駐車場がある、左程大きな公園とはいえない、普通の、広場があり、日本海を展望する休憩用の小屋がある、何の変哲もない公園である。ただ、公園の中程には、尼御前をイメージした像が立っていて、像自体はなかなかの美形であった。1109100028.JPG
”「尼御前」が身を投げたとされる断崖が撮れれば”と海に近付いたが、残念ながら安全柵ならぬ安全ロープに阻まれ、断崖に近付くことが出来なかった。更に、脇の方から回りこもうとした所、「地下に空洞が見つかったため立ち入り禁止」とのことで、回りこむことも叶わなかった。

逃避行する義経一行の中に「尼御前」と呼ばれる人物がいたという話は初耳であり、その逸話も初耳である。私の想像では地元で義経伝説に色を添えたのではないか?と考えている。1109100029.JPG

石川県観光推進総室,加賀百万石誘客キャンペーン推進会議事務局」のHPによれば、「義経主従の中に尼御前という名の尼がいた。尼御前は安宅の関の厳しさ、これから先の旅路を女であるがゆえ足手まといになると憂い、主君義経の無事を祈願しこの岬から身を投げたという。この伝説がこの尼御前岬の名前の由来になっている。」と記載されている。

真偽の程は別として、古今東西「英雄色を好む」は共通事項かも知れない。

1109100031.JPG尚、記念碑からすると、当地に皇太子が見えたことになっている。日付は「昭和43年10月11日」となっていることから、今上天皇(平成天皇)が皇太子時代と思われる。

 


安宅関(石川県) [京から平泉]

2011年9月10日

1109100037.JPG1109100039.JPG義経が、兄頼朝の追手から逃れるため京を出奔した後、どのような経路で奥州平泉まで行ったかは、未だに定かではない。いくつかの説(北陸ルート説、東山道ルート説、東海道ルート説、太平洋岸航行説 ほか)はあるものの、どの説もそれを裏付ける確証(正式な記録)はないのである。元々秘密裏に平泉を目指したのだから、その証拠が残っているようでは簡単に頼朝に捕らえられ、平泉には辿り着かなかったであろう。
諸説ある中で、最も有力視されているルートは”北陸ルート説”であるが、歌舞伎の十八番「勧進帳」は義経主従の逃避行道中の中でも最も有名な場面である。

1109100051.JPG1109100043.JPG舞台となった「安宅の関(あたかのせき;石川県小松市)」は現在、小松市の安宅住吉神社境内に関跡として残っている。1109100056.JPG歌舞伎「勧進帳」では、”義経たちが加賀国の安宅の関所(石川県)を通過する時、山伏に変装して関所を通過しようとする。ところが関所を守る富樫左衛門(とがしさえもん)は、義経たちが山伏に変装しているという情報を知っていたので、一行を怪しんでなかなか通そうとしない。そこで弁慶は、何も書いていない巻物を勧進帳と称して読み上げる。(勧進帳とは、お寺に寄付を募るお願いが書いてある巻物である。)一旦は本物の山伏一行だと信じて関を通した富樫だが、「中に義経に似た者がいる」との家来の訴えたに、義経たちを呼び止める。変装がばれないように、弁慶は持っていたつえで義経を激しく叩く。それを見た富樫は、その弁慶の痛切な思いに共感して関所を通すのだった(歌舞伎辞典より)。”と、物語としても最高の盛り上がりを示し、日本人の大好きな”判官贔屓”を大いにくすぐるストーリーとなっている。しかし、これは歌舞伎の世界の話であり、史実がどうであったのかは、全く不明である。

1109100057.JPG私は、史実がどうであれ、歌舞伎「勧進帳」は名作であり、長く後世に伝えられるものだと思う。

1109100066.JPG尚、「安宅関」の近隣には義経が立ち寄って饗応に預かった礼に置いていった法螺貝と錫杖があるとされる「勝楽寺」や、安宅の関を無事に通過することを祈願して義経が植えた「牛若松」という松がある(終戦までは県の名木に指定されていた)とされる「菟橋神社」がある。1109100069.JPG1109100070.JPG

「奥の細道」で有名な”松尾芭蕉”が、奥の細道の旅で加賀にもやって来たが、”安宅関”に寄った記載はないようである。どうも芭蕉の時代には「安宅関」は存在していなかったようである。一説には義経逃避行時に、臨時に造られた”関”ともいわれる。

 


大物浦(兵庫県) [京から平泉]

2011年7月31日

1107310004.JPG1107310006.JPG兄頼朝から狙われるようになり、義経は京を離れる決心をした。「文治元年(1185年)11月5日、弁慶ら側近を含む二百余騎と共に、大物浦から乗船し西国を目指すはずだったが、にわかに突風に襲われ、従者は四散した。仕方なく、残った伊豆右衛門尉、堀弥太郎、武蔵坊弁慶、静御前の4人を従えて、同夜天王寺辺りに一泊した後、姿を眩ませた。(高橋富雄著;義経伝説)」ということだが、訪問した「大物主神社(おおものぬしじんじゃ)」には、”義経と弁慶が隠れた跡”の碑が残されている。つまり、突風で辛くも岸に辿り着くと、ここ大物で1夜明かしたという話なのである。

1107310009.JPG大物(だいもつ)という土地は兵庫県尼崎市にあり、現在は神崎川河口から少し入った所になるようだが、その当時は直ぐ近くに浜があっても納得が行く。
「大物主神社」は、阪神電車の大物駅から歩いて数分の県道399号沿いにある。


1107310005.JPG”義経と弁慶が隠れた跡”とされる「義経弁慶隠家跡」の碑は神社本殿左端に見ることができた。


 


かくれ穴公園(東京都) [京から平泉]

2011年1月8日

この企画を決めてから、色々ネットでの検索を行っていく内に私の自宅に近い東京都日野市にも義経伝説の地が存在することが分かった。
義経一行が平泉へ逃げる途中にこの地の”穴”に隠れていたことから「かくれ穴公園」という名が付いたというのである。場所は”高幡不動”に隣接する住宅街の中にある100坪強の小さな公園であった。住宅地の中の公園ということで、写真撮影ぐらいできるだろうと、車を公園の前に止めて写真を撮ったのだが、運悪く(?)後から車が来てしまい、多くを撮っている暇がなく現地を離れなくてはならなかった。

この地も、前回の「顔振峠」同様、北陸ルート説を取るならこの地を通ったとするのは無理があるだろうと思われる。

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説明書きの通り、この公園に何かが残っている訳ではなく、近所に有った”かくれ穴”の記念碑的にこの公園を残しているようであった。

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極普通の住宅地にある小さな公園というイメージであった。

 



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