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顔振峠(埼玉県) [京から平泉]

2010年8月11日

義経が兄・頼朝の手勢に追われ、文治五年(1185)11月京を離れて大物浦(だいもつうら;兵庫県尼崎市)apedia_button.gifから西国へ船で向かおうとしたが、悪天候のため敢無く失敗に終わり、そのまま吉野(奈良県)に逃れた。
その後奥州平泉(岩手県)の藤原秀衡に助けを求めるため、頼朝の手勢の目を逃れながら何とか無事平泉につくことが出来た。

当り前といえばあまりにも当り前の話だが、義経主従(一行)がどのようなルートで奈良の吉野から奥州の平泉まで行ったのか、また時間はどの位かかったのかなど詳細は一切分かっていない。
鎌倉(頼朝)の目を逃れながらの逃避行のため、そのルートが判然としないのも当り前だが、現状最も可能性の高い説として北陸ルートが上がっているようである。
北陸ルートといえば、歌舞伎の十八番「勧進帳」で有名な「安宅関(石川県小松市)」を通る可能性が大きくなるが、「勧進帳」のようなハプニングが本当にあったのか、それ以前に本当に安宅関を通ったのかも勿論分かっていない。
もし北陸ルートが事実だとすれば、当然ながら当地「顔振峠」を抜けるというのは無理が生じる。縦しんば事実は当地を通らなかったとしても、「ロマンの中」と思えば目くじらも立つことはないだろう。

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当地「顔振(かあぶり)峠」のいわれは写真の通りだが、ここに至る山道は現在でこそ完全舗装となっていて、今回の私のように車で来ることも可能だが、その当時は恐らく”けもの道”同然の状態だったと思われる。それを思うと、義経一行の必死さを感じずにはいられない。

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「顔振峠」からの景色。ご覧の通りの美しい自然である。しかし、逆に考えれば今尚これほど緑豊かな山深い所をその当時逃げながら踏破するのは相当の苦労があっただろう。正に”九郎”ならぬ”苦労”だったに違いない。^^;

(当地「顔振峠」の関連記事を、私の別ブログ「ショートドライブ」の「奥武蔵グリーンライン」に記しているので、ご参照戴ければ幸いである。)

 



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