安宅関(石川県) [京から平泉]
2011年9月10日
義経が、兄頼朝の追手から逃れるため京を出奔した後、どのような経路で奥州平泉まで行ったかは、未だに定かではない。いくつかの説(北陸ルート説、東山道ルート説、東海道ルート説、太平洋岸航行説 ほか)はあるものの、どの説もそれを裏付ける確証(正式な記録)はないのである。元々秘密裏に平泉を目指したのだから、その証拠が残っているようでは簡単に頼朝に捕らえられ、平泉には辿り着かなかったであろう。
諸説ある中で、最も有力視されているルートは”北陸ルート説”であるが、歌舞伎の十八番「勧進帳」は義経主従の逃避行道中の中でも最も有名な場面である。
舞台となった「安宅の関(あたかのせき;石川県小松市)」は現在、小松市の安宅住吉神社境内に関跡として残っている。歌舞伎「勧進帳」では、”義経たちが加賀国の安宅の関所(石川県)を通過する時、山伏に変装して関所を通過しようとする。ところが関所を守る富樫左衛門(とがしさえもん)は、義経たちが山伏に変装しているという情報を知っていたので、一行を怪しんでなかなか通そうとしない。そこで弁慶は、何も書いていない巻物を勧進帳と称して読み上げる。(勧進帳とは、お寺に寄付を募るお願いが書いてある巻物である。)一旦は本物の山伏一行だと信じて関を通した富樫だが、「中に義経に似た者がいる」との家来の訴えたに、義経たちを呼び止める。変装がばれないように、弁慶は持っていたつえで義経を激しく叩く。それを見た富樫は、その弁慶の痛切な思いに共感して関所を通すのだった(歌舞伎辞典より)。”と、物語としても最高の盛り上がりを示し、日本人の大好きな”判官贔屓”を大いにくすぐるストーリーとなっている。しかし、これは歌舞伎の世界の話であり、史実がどうであったのかは、全く不明である。
私は、史実がどうであれ、歌舞伎「勧進帳」は名作であり、長く後世に伝えられるものだと思う。
尚、「安宅関」の近隣には義経が立ち寄って饗応に預かった礼に置いていった法螺貝と錫杖があるとされる「勝楽寺」や、安宅の関を無事に通過することを祈願して義経が植えた「牛若松」という松がある(終戦までは県の名木に指定されていた)とされる「菟橋神社」がある。
「奥の細道」で有名な”松尾芭蕉”が、奥の細道の旅で加賀にもやって来たが、”安宅関”に寄った記載はないようである。どうも芭蕉の時代には「安宅関」は存在していなかったようである。一説には義経逃避行時に、臨時に造られた”関”ともいわれる。
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