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指月橋(神奈川県) [京から平泉]

2012年7月29日

神奈川県川崎市多摩区の菅仙谷という所に、義経主従が平泉に落延びる道すがらの伝説地がある。この付近(同市麻生区も含む)は、他にも”義経”にまつわる伝説の地が多くあり、一説には、義経の家来四天王の一人「亀井六郎重清(かめいろくろうしげきよ)」の居城「亀井城」城下であったことに由来するという話もある。

<指月橋>
2012-07-29_0169.JPG指月橋の袂に立てられた「小沢城址里山の会」の説明「指月橋の物語」には、次のような説明が記されている。「皆さんが何気なく渡っているこの橋にも歴史の一コマが秘められております。これは、文治二年(1186年)今から八百五十年前の出来事に由来します。
2012-07-29_0172.JPG皆さんもご承知の通り義経と弁慶たちは、義経の兄である源頼朝に追われる身となりました。それは、一ノ谷の戦いで平家を痛め付け、壇ノ浦で滅ぼした功績により、後白河法皇から検非違使の位(盗賊の逮捕・風俗の取り締まり・非法の弾圧に当たる任務・現在の県警本部長に相当する位)を授かりました。これが頼朝の耳に入り、兄の許しも得ず平家を滅ぼし、朝廷より過分な位まで授かった事への怒りをかってしまったのです。そこで頼朝は、「義経、弁慶どもを捕えよ」という布令を出したのです。そうとは知らぬ義経達は、京から鎌倉を目指していました。しかし、途中の静岡あたりでその事に気付きました。そこで鎌倉へは向かわず、義経が幼い頃より青年時代までを過ごした岩手県の藤原秀衡の元に逃れることにしました。その道すがら一夜の宿を
寿福寺(川崎市多摩区菅仙谷1-14-1)に求めてこの橋まで来ました。しかし、橋板が朽ちて穴があいていました。(私が十歳、つまり昭和九年頃は、直径十センチ位の松の丸太が敷き詰められていました)このまま馬に乗って渡ったのでは馬の足がはまって骨折してしまうため馬から降りて点検することにしました。ふと夜空を見上げると満月が皓々と輝いていました。その満月を指して「今宵も良い月じゃのー」と言ったかどうか定かではありませんが、指月橋の指月とはまさにそれなのです。(小沢城址里山の会 広報担当 菅の語りべ 宮崎;平成十三年四月十日)」
解説の内容では、少々現在の歴史解釈と異なる部分があるが、それはさておき、文責の「小沢城址里山の会」の「小沢城」と、先に記した「亀井六郎」の「亀井城」との関係は定かではない。

地図から分かるように、場所はJR稲田堤もしくは京王稲田堤からが近い。住宅地の中にあり、用水路のような整備された小さな川に架けられた橋で、うっかりすると見過ごす可能性もある。


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