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白旗神社と伝源義経首洗井戸(神奈川県) [平泉以後]

2012年12月8日

文治5年(1189年)閏4月30日、藤原泰衡衣川高館にいる源義経を攻めた。その数100騎と言われている。無勢の義経は妻子と共に自刃し、その生涯(享年31歳)を終えた。そして、義経の首級は美酒に浸され黒漆塗りの櫃(ひつ)に収められ、新田冠者高平を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。6月13日、首実検が和田義盛梶原景時らによって、腰越の浦で行われ、その後その首級は浜に捨てられた。

<白旗神社>神奈川県藤沢市藤沢2-4-7

2012-12-08_0035.JPG2012-12-08_0036.JPG小田急江ノ島線「藤沢本町駅」から歩いて7-8分の国道467号沿いにある。
コンクリート作りの鳥居を潜ると、正面の高台に義経を祭る神社がある。
白旗神社の説明書きには「伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれています。」白旗神社HPより)とあり、平泉から運ばれた首級は義経1人のものだけではないことがうかがえる。
2012-12-08_0037.JPG白旗神社の祭神の中に「源義経公」とあり、由緒には「古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊を祀って、寒川神社とよばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。
鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治五年(1189)閏四月三十日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害されたその首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は、腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、この神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」
とある。赤字で示したように鎌倉の指示で義経の首をこの神社で祀るようになったというのは興味深く思った。

<源義経公鎮霊碑> 

2012-12-08_0038.JPG2012-12-08_0039.JPG白旗神社の社前につくられた「源義経公没後810年記念」の鎮霊碑とその説明には「文治五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館(タカダチ)で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。 その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。
本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。 平成十一年六月十三日 白旗神社」
と記されていた。

<伝源義経首洗井戸>

「藤沢本町駅」から歩いて数分の所に「伝源義経首洗井戸」の標識があり、ビルの横の小道を入ると突き当たりに小さな公園と共に、「首洗井戸」「首塚」がある。
写真のように井戸は石造りでかなりしっかりした造りとなっており、見るからに後世につくり直したと見える。
2012-12-08_0032.JPG「伝源義経首洗井戸」の標識


2012-12-08_0030.JPG「伝源義経首洗井戸」


2012-12-08_0029.JPG「九郎判官源義経公之首塚」



2012-12-08_0028.JPG「首塚」、「首洗井戸」は隣り合うような形で設置されており、傍の説明書きには「「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり文治五年(1189)に藤原秀衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。義経の首は首実検ののち片瀬の浜に捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。 ここから北方四〇メートル辺に義経首塚と伝える遺跡もありました。(現在は井戸近くに移動されている)と記載されていた。


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