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北行伝説-八戸「壱」-(青森県) [北行伝説]

2013年8月10日

2013-08-10_0029.JPG2013-08-10_0027.JPG<種差海岸(たねさしかいがん)>

青森県八戸市のHPには、”義経北行伝説”の中で、この「種差海岸」について「海路脱出した義経の八戸の上陸地点と言われている。」としている。
海岸は広く、私はどこに義経一行が上陸したのか、確認することはできなかったが、恐らくは砂浜の方に上陸したのではないかと想像を逞しくした。

2013-08-10_0035.JPG<熊野神社>
青森県上北郡六戸町大字犬落瀬字柴山56

2013-08-10_0032.JPGここ「熊野神社」は種差海岸から程近い少し内陸に入った所にあった。道路際に立てられた【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【熊野神社】悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1,189年)四月、平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。 当地方に伝えられる伝説によれば、平泉を逃れた義経主従は、気仙沼の港から海路北上種差海岸に上陸して休憩した場所または八戸上陸の地と伝えられている。 八戸観光協会 種差観光協会」と書かれていた。
尚、青森県神社疔のHPには主祭神は「伊邪那美命(イザナミノミコト)」とされている。また、縁起も出ているので興味のある方はここをご覧戴きたい。

2013-08-10_0039.JPG三嶋神社
青森県八戸市白銀町三島上5-92013-08-10_0040.JPG

JR白銀(しろがね)駅近くの三嶋神社に立てられた【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【源氏囲内(げんじかこいない)】(源氏の屋敷という意味が「源氏囲内」になったといわれる)悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1,189年)四月、平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのであろう。世にいう「判官びいき」である。 海路を舟でやってきた義経一行は、八戸の浦へ上陸し、白銀(しろがね)の村に一時仮住居を定めることにした。このあたり白銀に残る「源氏囲内」という地名は「源氏の屋敷」との意味だったといわれ、義経一行が舘越に居を移す前に法官氏の世話で住んでいたところであるという。
法官という姓は、義経が一行に世話を焼いてくれた者に「今後、判官と名乗るがよい」と申し渡したが、判官と名乗るのは差し障りがあるというので法官と改姓したといわれている。 社団法人八戸観光協会」
と書かれていた。

2013-08-10_0048.JPG2013-08-10_0042.JPG<長者山新羅神社(ちょうじゃさんしんらじんじゃ)>
青森県八戸市長者1-6-10

当神社の主祭神は「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」と「新羅三郎源義光(しんらさぶろうみなもとのよしみつ)」とされている。そして源義経と当社の関係は、【「伝説」源義経 北方コース】の解説板に「【長者山】悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ文治五年(1,189年)四月、平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれる。短く華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのであろう。世にいう「判官びいき」である。 当地方に伝えられている伝説によれば、平泉にいた義経に命令された家来の板橋長治と喜三太が義経の居所をこしらえようと柴を回し木を植え、みだりに人が入らないようにした土地と伝えられており、昔は長治山と呼んでいたと言われている。それが今では長者山と呼んでいる。 社団法人 八戸観光コンベンション協会」と解説している。
つまり、義経の居所を造ろうとした場所ということになる。


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