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北行伝説-八戸「弐」-(青森県) [北行伝説]

2013年8月10日

2013-08-10_0052.JPG2013-08-10_0053.JPG<藤ケ森稲荷神社> 
青森県八戸市類家1-7

道路の中洲のような所にある小さなお稲荷さんだった。大通りから入って直ぐの所で、車の置き場所に困ったものである。
当社には【「伝説」源義経 北方コース】の解説板がなく、下調べをしてなければ「義経ゆかりの地」とは分からなかったかも知れない。
当社は、義経が信心していた藤ケ森稲荷を京都より勧請したとのことである。

2013-08-10_0057.JPG2013-08-10_0055.JPG<帽子屋敷(ぼうしやしき)>
青森県八戸市類家二丁目5-15 芭蕉堂公園

俳人松尾芭蕉に因んだ「芭蕉堂公園」となっているこの地が、義経伝説の残る「帽子屋敷」の地である。【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【類家村・帽子屋敷】悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ文治五年(1,189年)四月、平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれる。短く華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのであろう。世にいう「判官びいき」である。
「類家稲荷大明神縁起」(おがみ神社所蔵)によれば、藤ケ森稲荷を祭ったこの地に参詣するために高館からの往来も大変だということで、義経をはじめとして家来たちはめいめいに茅ぶきの小屋を建てた。この茅ぶき小屋が家の形に類似していたので「類家の者ども」と呼ばれた。
また、一行が参詣した折に装束の烏帽子や狩衣などを置くところがなかったため、お宮の外に仮杭を立て、それらを掛けておいたところから「帽子屋敷」と呼ばれた。
いずれも、藤ケ森稲荷ゆかりの地名だといえる。 社団法人八戸観光コンベンション協会」
と解説されている。

2013-08-10_0059.JPG2013-08-10_0062.JPG<おがみ神社>
青森県八戸市内丸2-1-51

当社は本八戸駅に近く、八戸城二の丸跡にあり、法霊神社、法霊山とも呼ばれている。主祭神は高おかみ神(たかおかみのかみ)と法霊大明神(ほうりょうだいみょうじん)とされている。
【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【法霊山おがみ神社】源義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1,189年)岩手県平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれ、悲劇の名将として世に伝えられております。
当地方に伝えられている伝説によれば、北へ逃れた義経は、八戸に上陸し市内の高館に住んだと云われております。2013-08-10_0060.JPG
元中年間(1205年)義経夫人(京の久我大臣の姫君)が亡くなり京ケ崎に葬り、法霊大明神とあがめられました。おがみ神社がその場所だといわれております。
この神社には、八戸の義経伝説の記録「類家稲荷大明神縁起」が所蔵されています。 (社)八戸観光協会」
と書かれている。
所で、解説に「京の久我大臣の姫君」とあるが、この北の方は南北朝時代から室町時代初期に書かれた「義経記」に出て来る人物で、実在を疑う説もある。通常「吾妻鏡」に登場する「河越重頼の女(むすめ)」が北の方とする説が有力である。

2013-08-10_0079.JPG2013-08-10_0073.JPG<小田八幡宮(こだはちまんぐう)>
青森県八戸市小田1-2-1

当社「小田八幡宮」の縁起には、天喜年間(1046から57)に建立されたと記されているという。主祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと;応神天皇)とされている。
【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【小田八幡宮】源義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1,189年)岩手県平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれ、悲劇の名将として世に伝えられております。
2013-08-10_0080.JPG当地方に伝えられている伝説によれば、北へ逃れた義経は、八戸に上陸し、近くの高館に住んだといわれています。
その時この宮に義経が持参した毘沙門天の像を、八幡の神に合せ奉ったともいわれ、また家来と共に奉納した大般若経の写経と経箱が現在も奉られています。 八戸観光協会」
と記されていた。
2013-08-10_0088.JPGまた、別の解説板には「【小田村の地名起源】「類家稲荷大明神縁起」(おがみ神社所蔵)によれば、義経が鞍馬から持参した毘沙門天の像を祀った小田八幡宮の前通りに、義経自らが小さな田を段々に開いていったことから「小田」と命名されたという。
義経が住んでいた場所はこの地に程近い高館山の西方にあったと言われている。」
と記されていた。


北行伝説-八戸「壱」-(青森県) [北行伝説]

2013年8月10日

2013-08-10_0029.JPG2013-08-10_0027.JPG<種差海岸(たねさしかいがん)>

青森県八戸市のHPには、”義経北行伝説”の中で、この「種差海岸」について「海路脱出した義経の八戸の上陸地点と言われている。」としている。
海岸は広く、私はどこに義経一行が上陸したのか、確認することはできなかったが、恐らくは砂浜の方に上陸したのではないかと想像を逞しくした。

2013-08-10_0035.JPG<熊野神社>
青森県上北郡六戸町大字犬落瀬字柴山56

2013-08-10_0032.JPGここ「熊野神社」は種差海岸から程近い少し内陸に入った所にあった。道路際に立てられた【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【熊野神社】悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1,189年)四月、平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのである。世にいう「判官びいき」であろう。 当地方に伝えられる伝説によれば、平泉を逃れた義経主従は、気仙沼の港から海路北上種差海岸に上陸して休憩した場所または八戸上陸の地と伝えられている。 八戸観光協会 種差観光協会」と書かれていた。
尚、青森県神社疔のHPには主祭神は「伊邪那美命(イザナミノミコト)」とされている。また、縁起も出ているので興味のある方はここをご覧戴きたい。

2013-08-10_0039.JPG三嶋神社
青森県八戸市白銀町三島上5-92013-08-10_0040.JPG

JR白銀(しろがね)駅近くの三嶋神社に立てられた【「伝説」源義経 北方コース】の解説板には「【源氏囲内(げんじかこいない)】(源氏の屋敷という意味が「源氏囲内」になったといわれる)悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1,189年)四月、平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれている。短く華麗だったその生涯を想い、後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのであろう。世にいう「判官びいき」である。 海路を舟でやってきた義経一行は、八戸の浦へ上陸し、白銀(しろがね)の村に一時仮住居を定めることにした。このあたり白銀に残る「源氏囲内」という地名は「源氏の屋敷」との意味だったといわれ、義経一行が舘越に居を移す前に法官氏の世話で住んでいたところであるという。
法官という姓は、義経が一行に世話を焼いてくれた者に「今後、判官と名乗るがよい」と申し渡したが、判官と名乗るのは差し障りがあるというので法官と改姓したといわれている。 社団法人八戸観光協会」
と書かれていた。

2013-08-10_0048.JPG2013-08-10_0042.JPG<長者山新羅神社(ちょうじゃさんしんらじんじゃ)>
青森県八戸市長者1-6-10

当神社の主祭神は「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」と「新羅三郎源義光(しんらさぶろうみなもとのよしみつ)」とされている。そして源義経と当社の関係は、【「伝説」源義経 北方コース】の解説板に「【長者山】悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は兄の頼朝に追われ文治五年(1,189年)四月、平泉の高館において三十一才の若さで自害したといわれる。短く華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出た”という伝説を作りあげたのであろう。世にいう「判官びいき」である。 当地方に伝えられている伝説によれば、平泉にいた義経に命令された家来の板橋長治と喜三太が義経の居所をこしらえようと柴を回し木を植え、みだりに人が入らないようにした土地と伝えられており、昔は長治山と呼んでいたと言われている。それが今では長者山と呼んでいる。 社団法人 八戸観光コンベンション協会」と解説している。
つまり、義経の居所を造ろうとした場所ということになる。


北行伝説-遠野、宮古-(岩手県) [北行伝説]

2013年8月12日

源義経は文治五年(1189年)閏4月、奥州平泉の衣川館で31歳の生涯を終えた。これは、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡(あづまかがみ)」に書かれている内容である。しかし東北地方、それも平泉(岩手県)以北には所謂義経の「北行伝説」なるものが残っている。
義経は、平泉では死なず、蝦夷が島(北海道)を目指して逃げたというものである。この話は蝦夷が島から更に大陸へ渡り、果てはモンゴルの英雄「チンギスハン(成吉思汗)」になったという「義経は成吉思汗なり(小谷部 全一郎(おやべ ぜんいちろう))」にまで繋がるようだ。それはともかく、義経の「北行伝説」は伝説ではなく、事実であるとした歴史家「佐々木勝三」氏がいた。氏は自らの資材を投げ打って、義経の足跡を自らの足で追ったことで有名である。
今回私は、佐々木勝三氏ほど緻密に義経の足跡を追うことはできないが、その一部を経験することができた。

「北行ルート」は平泉から津軽半島の竜飛崎までの一方通行だったが、私は都合上北から南へ向かうこととなってしまった。そのため、ブログ上では義経の足取りに従い、南から北に順次記して行くことにする。

2013-08-12_0200.JPG<風呂家>
岩手県遠野市上郷細越

2013-08-12_0201改.jpg源義経とその一行が平泉を抜け出し、遠野に着いた時にとある民家で風呂に入らせてもらった。以来その家の姓を「風呂」と呼ぶようになったと伝えられている。
「風呂家」は岩手県遠野市上郷に今も残っている。家の前に建てられた「伝説義経北行コース」の解説板には「【風呂家】 悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ文治五年(1189年)四月、平泉の高舘において31歳を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い、義経は、その1年前にひそかに平泉を脱し、北をめざして旅に出たという伝説を作りあげたのである。
世にいう「判官びいき」であろう。
その伝説の一つに”平泉を脱出した義経主従は、赤羽根峠を越えてここまでたどりつき、この家で風呂をたてさせ、入浴した。それ以来この家の姓を「風呂」と呼ぶようになった。”と伝えられている。
また、このあたりの地名は今も「風呂」という。 遠野市」
と書かれていた。

2013-08-12_0170.JPG<横山八幡宮>
岩手県宮古市宮町2-5-1

2013-08-12_0167.JPG岩手県宮古市の「横山八幡宮」のHPには「正治元年(1199年)、源九郎判官義経、平泉を逃れ当宮に参籠。大般若経百巻を奉納した。家臣の鈴木三郎重家は、老齢のためこの地に残り、「近内」というところに住み、当宮の宮守となった。」と記されている。また明治28年(1895年)岩手県宮古市に生まれた郷土史家「佐々木勝三」氏の共著「義経伝説の謎」(けい文社)で氏は「(鈴木三郎)重家は生前、名を重三郎と変名して横山八幡宮の神主となった。そして正治元年(1199年)3月15日、公卿烏丸殿とともに京都に上って、義経の冤罪について訴えたことは前にも述べた。
明和8年(1771年)3月に行われた法霊権現再興の棟札の裏面に、この神社の縁起が書かれている。
それによると、鈴木三郎重家と、その弟亀井六郎重清は紀州藤白村の出身で、熊野の日本一の大霊権現の官家であった大官重高より16代の末流であったが、重家は義経公と前世の契りをかわしていたため、蝦夷国までついて行こうとしたという。それを義経公から、老齢だからおまえは残れ、と止められたそうである。」
と義経生存の裏付け証拠を提示している。

2013-08-12_0163.JPG<久昌寺>
岩手県宮古市田代17-60-2

2013-08-12_0166.JPG岩手県宮古市のHPには「久昌寺」について源氏の一族である源義里がここに居館を構えており、義経一行が立ち寄ったといわれている。と記載している。また、久昌寺に立てられた「伝説義経北行コース」の解説板には「【久昌寺】悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1189年)四月、平泉の高館において三十一才を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北を目指して旅に出た”という伝説を作りあげたのである。
世にいう「判官びいき」である。
その伝説の一つに”源氏の一族である源義里がこの田代に居館を構え、平泉を脱出した義経主従が北へ向かう途中立寄った”と伝えられている。
久昌寺には、源義里が奉納し、長久息災延命をいのったという〇〇が残っている。 岩手県観光連盟」
と書かれている。(「〇〇」は判読不能)

2013-08-12_0126.JPG<鵜鳥神社>
岩手県下閉伊郡普代村25字卯子酉6

2013-08-12_0127.JPG宮古市の北になる普代村に、「義経北行伝説」のゆかりの地がある。当社「鵜鳥神社」もその1つで、地元では当社を「うねどり様」と呼ぶようである。

神社境内に立てられた「伝説義経北行コース」の解説板には「【鵜鳥神社】 悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1189年)四月、平泉の高館において三十一才を一期として自刃したが、短くも華麗だったその生涯を想い後世の人々は”義経は、その一年前にひそかに平泉を脱し、北を目指して旅に出た”という伝説を作りあげたのである。
世にいう「判官びいき」であろう。
その伝説の一つに”平泉を脱出した義経主従は、その途中、この地で七日七夜にわたって海上安全、武運長久、諸願成就”を祈り、藤九郎盛長に命じ社殿を建立し、祭典を執行するよう命じたという”と伝えられている。
義経はこの地で金色の鵜鳥が子を抱いているのを見たとも伝えられているという。 岩手県観光連盟」
と書かれている。


廐石と義経寺(青森県) [北行伝説]

2009年4月28日

「義経は平泉で自刃した」は表向きの話で、実は密かに平泉を逃れ、一路北に向かい津軽半島突端の竜飛岬から蝦夷が島(北海道)に逃れたと言う伝説(義経北行伝説)が有る。

2009年のゴールデンウィーク(4月28日)に北東北をドライブ旅行した際、偶然行き当たったのが今回紹介する「廐石」と「義経寺」である。
(私の別ブログ「ロングドライブ」の「陸奥紀行(3)青森-弘前」も参照戴ければ幸である。)
しかし正直な所、「義経寺」の方は境内には入ってないので、今回は入口の写真のみ紹介しておく。近い内に再度訪問し、今度は寺の見学をして来ようと思っているので、それまで暫しお許し戴きたい。

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「義経寺」の入口。小高い丘の頂上にお寺はある。参道は綺麗に整備されていた。

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頂上の寺の一部が見て取れた。

さて、もう一方の「廐石」であるが、石の由来について以下のような説明があった。
「文治五年(1189年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高館で藤原泰衡(秀衡の息子)に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた!
 藤原秀衡の遺言「危険が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし」のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。
 近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩の上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるよう一心に祈願した。丁度満願の暁に、白髪の翁が現れ、”三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい”と云って消えた。翌朝巌上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることが出来た。
 それから、この岩を廐石、この地を三馬屋(三廐村)と呼ぶようになりました。」

説明からも分かるように、平泉を逃れた義経主従は、ここから北海道に渡ったようである。

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後の岩山のようなものが「廐石」で、下の方には穴のような空洞が2ヵ所ほど開いている。

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上に記した説明書きである。


 


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