剛山、笛吹山(兵庫県) [源平合戦]
2013年10月12日
源平合戦で有名な寿永3年(1184年)の「鵯越(ひよどりごえ)」や「一ノ谷(いちのたに)の戦い」で、源義経の名声は天下に響き、この後の寿永4年の「屋島(やしま)の戦い」、同年「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」へと突き進んで行く。その「鵯越」の前に京から丹波国(たんばのくに)篠山(ささやま)を通るその時の伝説ということになる。
尚、篠山市及びその周辺に残る「義経ゆかりの地」は、殆どその解説などがされていない。「義経ゆかりの地」の標識もなされていないため、伝承地の確認ができなかった。
そういった事情から、今回はネット情報を元に「・・・だろう」と思われた場所を紹介する。
ネット情報では、「兵庫県立篠山鳳鳴(ほうめい)高校の裏手に位置する山」とされていた。また、そこに残されている伝承は「義経の一隊は、北の街道と南の街道に分かれて西進し、義経は北の街道を進んだが、この地で小息し、笛を取り出し一曲を奏でたので、以来この山を「笛吹山」、そしてその地の薬師如来を「笛の薬師」というようになったと伝えられる。(篠山市HPより)」とされていた。
写真:手前が「県立篠山鳳鳴高校」。後ろの山が「笛吹山」と思われる。
地元伝説によれば「源義経が丹波を通過した元暦元年(1184)二月四日泉村の南賀寺に詣でた。ちょうど当日は寺講の日であったので、義経らは寺講のご馳走の接待を受けた。義経は大いに喜び、「この東の山は何というか」と尋ねた。すると住持は「これはこう山と申しまする」と答えた。そこで義経は「さらば今日の寺講を記念して講山と唱えよ」といったので、以来西から講山、東から甲山、南から神山、北から剛山、と呼ぶようになったと伝えられ、いずれにしても「こう山」に違いはない。現在の地図には「剛山」と書かれている。(篠山市HPより)」とされている。
写真:正面の山が「剛山」。たまたま話をした地元の人も、この山について「義経伝説」があるといわれていた。
コメント 0