SSブログ

鞍馬寺、貴船神社(京都府) [鞍馬寺]

2013年10月13日

2013-10-13_0041.JPG2013-10-13_0063.JPG「牛若丸(うしわかまる)」(源義経の幼名)が11歳の時に「鞍馬寺(くらまでら)」に預けられ、夜な夜な鞍馬の天狗から剣術を習ったという伝説は有名である。
今回、”鞍馬の天狗”は別として、牛若丸が預けられた「鞍馬寺」とその裏山で剣術修業をしたとされる”ゆかりの地”、及び遮那王(牛若丸)が平家討伐を祈願したといわれる「貴船神社(きふねじんじゃ)」までの山道を辿ってみた。(写真左:鞍馬寺山門、写真右:鞍馬寺本堂)

鞍馬寺の本堂までに、以下の3カ所を見つけた。

2013-10-13_0049.JPG2013-10-13_0048.JPG鬼一法眼社>
鬼一法眼(きいちほうげん)」とは、南北朝時代から室町時代初期に成立したといわれる「義経記(ぎけいき)」に登場する伝説上の人物で、「六韜三略(りくとうさんりゃく)」という中国伝来の”兵法の書”を持つ陰陽師と設定されている。詳細はWikipediaに譲るが、この兵法の書を源義経が手に入れ、後に”源平合戦”で大活躍をするということである。
この<鬼一法眼社>は、この話に因んで「鬼一法眼」を祀る社となっている。入り口の説明書きには「鬼一法眼は牛若丸に「六韜三略」の兵法を授けた武道の達人といわれる。武道の上達を祈願する人も多い。」と書かれている。


2013-10-13_0058.JPG2013-10-13_0057.JPG<川上地蔵堂>
堂の前の説明書きには「遮那王(しゃなおう)と称した牛若丸(義経公)の守り本尊である地蔵尊が祭られており、牛若丸は日々修行のときにこの地蔵堂に参拝したといわれる。」と記してあった。


2013-10-13_0060.JPG2013-10-13_0059.JPG<義経公供養塔>
「八百年余り前、牛若丸が遮那王と名乗り、七歳の頃から十年間、昼は学問、夜は武芸に励んだときに住まいした東光坊の旧跡である。義経公をしのんで、昭和十五年に供養塔が建てられた。」と塔の前の説明書きに記されていた。

本堂を過ぎ、裏山から貴船神社までの道程に以下のものがあった。

2013-10-13_0075.JPG2013-10-13_0074.JPG<義経公息次の水>
奥の院に向かう一本道の脇に水飲み場のような所があり、その説明書きには「牛若丸が,毎夜奥の院僧正が谷へ剣術の修業に通ったとき、この清水を汲んで喉をうるおしたといわれる。八百余年後の今も沸きつづけている。」と書かれている。


2013-10-13_0079.JPG2013-10-13_0078.JPG<義経公背比べ石>
これも”奥の院”に向かう道沿いにある。「遮那王と名のって十年あまり鞍馬山で修業をしていた牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衡の許に下るときなごりを惜しんで背を比べた石といわれる。波乱に富んだ義経公の生涯は、この石に始まるといえよう。 ”遮那王が背比べ石を山に見てわがこころなほ明日を待つかな” 與謝野 寛」との説明書きがあった。

2013-10-13_0081.JPG<僧正が谷不動堂>
鞍馬に住む”鞍馬天狗”は”僧正が谷”にいるといわれているとか。この場所にある不動堂の説明書きには「堂内の不動明王は比叡山開祖伝教大師がここに参篭なさったときお刻みになったと伝えられる。また牛若丸が鞍馬天狗より兵法を学んだ舞台は、このあたりであるという。」とあった。


2013-10-13_0082.JPG2013-10-13_0083.JPG<義経堂>
義経公の御魂を祀る堂で、「歴史には文治五年(1189)四月、奥州衣川の合戦にて自害したと伝えるが、義経公の御魂はこの山におわし遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正のお働きを助けておられるという。 この義経堂には遮那王尊をおまつりする。」と説明されていた。

2013-10-13_0090.JPG2013-10-13_0096.JPG尚、終着点の「貴船神社」には、特に”源義経”に関係する案内は出されていなかったが、鞍馬と貴船の距離は上の地図を見ても明らかなように、程近い(当時は特に)距離にあるので、祈願成就のため参詣した可能性は十分にあると思われる。


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。