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義経妻子の墓(岩手県) [平泉]

2014年4月28日

文治5年(1189年)閏4月30日、義経は奥州平泉の衣川館で、藤原泰衡の軍勢に攻められ、正妻と娘(4歳)を殺害し、自らも自害して果てた。享年31歳だった。
義経は首を鎌倉に送られ、躰は別に葬られた。首は神奈川県平塚市の「白旗神社」に葬られたといわれ、躰は宮城県栗原市にある「判官森」と呼ばれる所に葬られたと伝えられている。また、義経に殺害された正妻(吾妻鏡では河越氏の娘「郷御前」としている)と娘を葬ったのが、平泉にある「源義経公妻子の墓」とされている。

2014-04-28_0057.JPG2014-04-28_0053.JPG<義経妻子の墓>
岩手県西磐井郡平泉町 金鶏山麓

平泉の街から金鶏山を目指すと、山道に入って間もなく千手堂の標示があり、その脇に古い木の鳥居があり奥に「源義経公妻子の墓」の標示が見えて来る。


2014-04-28_0054.JPG2014-04-28_0056.JPG墓の傍に立てられた解説板には「源義経公妻子の墓 源頼朝の威圧に依って藤原泰衡が高舘に義経公を襲った。義経公は北の方と幼児を殺害し、自害したと伝えられる。時は平安時代の文治五年(1189年)閏四月三十日、三十一歳で最期を遂げられた。このお墓は、高舘で悲しくも露と消えた妻子の墓と伝えられているが、元は千手院境内で、ここから約三百米程の西北金鶏山の山麓にあったが、ここに墓石を遷し供養を怠らない。」と記されていた。


高館義経堂(岩手県) [平泉]

2012年8月18日

兄の源頼朝と不仲となり、鎌倉方に追われる身となった義経は、都落ちして姿を変えながら郎党と共に奥州平泉まで逃げ延び、藤原秀衡に匿ってもらった。そして、秀衡亡き後息子の泰衡が鎌倉の圧力に負けて、義経を攻めるまでの間、義経は北の方(吾妻鏡では河越太郎重頼の女;郷御前としている)と娘の3人でこの衣川の館(高館)で平穏に暮らしたのだが、泰衡の攻撃により義経とその妻子はここで最期を迎えたとされている。 

2012-08-18_0123.JPG中尊寺から衣川館跡となる「高館義経堂」は、車で5分ほどの距離にある。やや狭目の脇道に折れると直ぐに、10台程停められる駐車場があり、そこからは歩いて緩やかな坂道を23分登ることになる。
義経堂の境内は思ったより狭い感じがしたが、その境内から見える北上川や周辺の景色は素晴らしいものであった。
 

2012-08-18_0120.JPG2012-08-18_0125.JPG高館義経堂
義経堂は、仙台藩主伊達綱村(第4代)公が義経を偲んで建立したとされている。また、堂の中に本尊として祀られている義経は、堂創建時に作成された木造の義経像とのこと。

平泉町観光協会の説明では「ここ高館(たかだち)は、義経最期の地として伝えられてきた。藤原秀衡(ひでひら)は、兄頼朝に追われて逃れてきた義経を平泉にかくまう。しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡(やすひら)は、父の遺命に背いて義経を襲った。文治五年(1189年)閏四月三十日、一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。時に義経三十一歳。吾妻鏡によると、義経は「衣河館(ころもがわのたち)」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館(はんがんだて)」とも呼ばれるこの地は、「衣河館」だったのだろうか。ここには天和三年(1683年)伊達綱村の建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祭られている。頂上からの眺望は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてて東に束稲(たばしね)の山なみが眺められる。束稲山は往時、桜山とも呼ばれ、西行(さいぎょう)が山家集で「ききもせず 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」と詠じた。また、元禄二年(1689年)、俳聖松尾芭蕉が「おくのほそ道」で詠んだ「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、この場所といわれている。平成六年四月 平泉町観光協会 -高館義経堂解説より-」と書いている。


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