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弁慶鏡ケ井戸(東京都) [弁慶]

2013年1月5日

2013-01-05_0006.JPG義経が平泉に向かうのは、その短い人生(31年)の内2回ある。1回は京都鞍馬を抜け出し、奥州の商人”金売吉次”と共に行った時。この時は、途中(近江の国鏡の里とも、三(参)河の国熱田神宮とも言われる)で元服したとされる。又、2回目は兄頼朝との仲が不和となり、追われる身となって京から逃げる時である。
当地(東京都台東区池之端)を通ったのはどちらの時か定かではないが、”義経主従がこの地を通った時、「弁慶」が井戸を見つけた”とされていることから、恐らくは2回目の頼朝に追われる身となった時と思われる。

その真偽はともかくとして、東京の中央部(山手線の内側)に「義経伝説ゆかりの地」があるのには非常に驚かされた。

弁慶鏡ケ井戸(境稲荷神社内)台東区池之端 1-6-13

2013-01-05_0010.JPG2013-01-05_0011.JPG東大(東京大学)の池之端門脇に「境稲荷神社」があり、神社の裏(北側)に「弁慶鏡ケ井戸」がある。この場所は、上野の「不忍池」や「上野動物園」が直ぐ近所にあり、正に大都会のど真ん中と言っても過言ではない環境下にある。

神社に設置された解説には「境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(1469 〜1486)に室町幕府第九代将軍足利義尚(よしひさ)が再建したという。「境稲荷」の社名は、この付近が忍ヶ丘(しのぶがおか;上野台地)と向ヶ丘(むこうがおか;本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池之端一・二丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。
 社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和 15年に再び掘り出し、とくに昭和 20年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。 平成 6年 3月 台東区教育委員会」
とある。古くから地域住民の役に立って来た井戸ではあるが、現在、飲料用としては「不可」とされているようだ。


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