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弁慶誕生の地(島根県) [弁慶]

2014年8月12日

”武蔵坊弁慶生誕の地”として和歌山県田辺市(既報「弁慶誕生の地(和歌山県)」)が知られているが、他に島根県松江市もある。
和歌山に伝わる”弁慶誕生伝説”と松江に伝わるそれとでは、少々話が異なっている。当たり前と言えば当たり前かも知れないが、面白いのは、松江の伝説で”弁慶の母(弁吉)の出身地を和歌山”としている点である。どちらが真実を語っているのかは別として、何らかの形で和歌山(紀伊国)が関わっていたのかも知れない。しかし、弁慶そのものの存在を疑問視する意見もあり、疑問は依然”霧の中”と言える。
そうした中、今回2大誕生地のもう1つ、松江(島根半島地域)を訪問して来たので報告する。

松江(島根半島地域)に伝わる”弁慶誕生伝説”はリンクのWikipediaに譲るが、和歌山県田辺市よりも”ゆかりの地”が分散しているため、マイカーでの移動でもボリューム感があった。

2014-08-12_0026.JPG2014-08-12_0015.JPG<鰐淵寺(がくえんじ)>
島根県出雲市別所町148

仁平元年(1151年)松江市に生まれた弁慶は、当寺で18歳から3年間修業をしたとされている。また、源平合戦の最後の戦いである「壇ノ浦の合戦」の後、出雲に戻ると当寺に身を寄せた。
2014-08-12_0027.JPGまた、伯耆大山寺の鐘を一夜の内に持ち帰ったとする伝説もある。



2014-08-12_0033.JPG<弁慶の里 道の駅本庄>
島根県松江市野原町401番地8

当地は弁慶に関する情報を紹介するコーナーを設けているが、弁慶ゆかりの碑、品などは特にはおいていない。



2014-08-12_0035.JPG2014-08-12_0037.JPG<弁慶の森>
島根県松江市長海町弁慶森

当地は武蔵坊弁慶が生まれたとされる森である。森の入り口に立てられた解説板によれば、「弁慶の森 武蔵坊弁慶が生れた森。 弁慶の母弁吉は紀州和歌山県田辺市の生まれだが、縁あって長海の里に来て弁慶を生んだという。 この森の入り口から5分程登ったところに母弁吉が手で掘ったといわれる弁慶産湯の井戸跡がある。また中央には、弁慶が母の御霊をまつる為に建立した小さな祠「弁吉女霊社」があり、弁吉女霊社祭が毎年7月1日この地で行われる。」と記載されている。


2014-08-12_0039.JPG<弁慶の大石>
「弁慶の森」の道を挟んだ反対側

”松江市本庄公民館”発行の「海と山に抱かれた本庄 まちあるきマップ」の説明によれば、「生まれたとき弁慶は母の胎内に13カ月いて、髪はすでに肩まで伸び、歯も生え揃っていた。小さい頃から体はとても大きく力持ちで、5歳のときには高さ2メートルの大石を、軽々と持ち運んだ。その大石は弁慶の森の入り口付近の畑の中に、今でも置いてある。」と書かれている。



2014-08-12_0040.JPG<弁慶島>
島根県松江市野原町

「弁慶の大石」同様「海と山に抱かれた本庄 まちあるきマップ」の説明によれば、「弁慶があまりにも乱暴だったため、それに怒った母弁吉は弁慶を流した。それが亀島(かめしま)いわゆる弁慶島である。ここで弁慶は、父親と名乗る天狗から兵法を学び、後に自力でこの島から脱出したとのこと。今は陸続きになっているが、島には通行禁止で渡れない。」とされている。



弁慶の手掘井戸(新潟県) [弁慶]

2014年5月2日

元暦2年(1185年)11月3日、義経は300騎を引連れて都を落ち、西国を目指した。ここに始まる義経以下郎党の逃亡劇は、日本全国(主には北陸から東北)に様々な伝説を残すことになる。勿論、義経一行の逃亡ルートは定かではない。しかし最終的には、奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に保護されていることから、凡そ京都から北陸道を進み、最終的に平泉に入るルートが考えられる。 
逃亡は多人数では目立つことから少人数であったことは想像に難くない。事実(?)各地に残る伝説でも武蔵坊弁慶他数人の家来が同行している。加えて、数人の女性も同行しているのも奇異といえば奇異だが、山形の瀬見温泉や他数カ所に残る伝説では、正室や妾など様々変化しながらも女性を伴っている。
そうした中、当地新潟県長岡市寺泊にある「聚感園(しゅうかんえん)」に残された古井戸は、弁慶が掘った井戸とされている。

2014-05-04_0005.JPG2014-05-04_0009.JPG<弁慶の手掘井戸>
新潟県長岡市寺泊二ノ関2725

義経一行が北陸を逃げて行く時に、鎌倉方の目を避けて一時逃げ込んだ当地の五十嵐家には、弁慶が掘った井戸が残されているとしている。

2014-05-04_0011.JPG現在はその五十嵐家邸宅跡が新潟県長岡市指定の文化財、史跡公園「聚感園」となっているが、「聚感園」の説明書きには「文治三年(1187年)頼朝に追われた義経・弁慶主従は奥州落の途次、追手の目をのがれて五十嵐家にかくまわれました。その時の浴室の跡と弁慶手掘の井戸があります。」と書かれている。

2014-05-04_0004.JPGまた、井戸の傍に立てられた説明には「弁慶井泉の詩 文治三年(1187年)源義経、弁慶主従が、北国落ちのとき、ここ五十嵐邸にしばらく滞留したと伝えられ、そのとき弁慶が自ら井戸を掘って義経に供したといわれている。文化年間に漢学者の亀田鵬斎が五十嵐家を訪れ、弁慶井泉の詩をつくった。(以下略)」と書かれている。


弁慶の墓(岩手県) [弁慶]

2014年4月28日

文治5年(1189年)閏4月30日、義経は奥州平泉の衣川館で、藤原泰衡の軍勢に攻められ、正妻と娘(4歳)を殺害し、自らも自害して果てた。この時、義経の家来であった”武蔵坊弁慶”も、あの「弁慶の立ち往生」で戦死したと伝えられている。
その後、弁慶の首級は義経の首級と共に、鎌倉に送られたと、神奈川県平塚市にある”白旗神社”の言い伝えにある。また白旗神社の直ぐ傍の”常光寺”には「弁慶の首塚」もある。となると、白旗神社の言い伝えが正しければ、今回紹介する”弁慶の墓”は”躰”だけが葬られた所ということになるが、果たして真実は如何に。

2014-04-28_0001.JPG2014-04-28_0002.JPG<武蔵坊弁慶の墓>
 岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関地内

岩手県平泉町の世界遺産「中尊寺」。その参道入り口脇にあるのが「武蔵坊弁慶の墓」である。傍に立てられた「武蔵坊弁慶大墓碑 建立由来」という解説板には「文治五年(1189年)義経の居城高舘焼討されるや、弁慶は最後まで主君を守り、遂に衣川にて立往生す。遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて、後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ石碑が建てられた。色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊」とある。


三八城山と弁慶石(青森県) [弁慶]

2013年8月10日

2013-08-10_0067.JPG<三八城(みやぎ)山と弁慶石>
青森県八戸市内丸1-14-49他

2013-08-10_0066.JPG源義経主従の中で、武蔵坊弁慶はその怪力が有名となっている。怪力が所以となって「弁慶のXX」という物が全国各地に存在する。ここ「三八城神社」にも「弁慶石」が残されていた。

三八城神社は、その名の通り八戸城本丸跡地に造られた三八城公園内にある。2013-08-10_0064.JPG【義経北行の旅案内板について】という案内板には「この地方には、源九郎判官義経が平泉を脱出し、北へ向かったという語り伝えが有り、八戸市内にも義経の北行にまつわる伝説を裏づける多くの地名や品々が残っている。これらの紹介が歴史ロマン散策の資となることを願って市内伝説の足跡16ケ所に案内板を設置した。」と解説し、その同じ案内板に「【三八城山と弁慶石】 義経が、高館の御所から見渡して、馬渕川の東の野原を京ケ原と名付け、また京ケ原の北の州先を京ケ崎と命名したのが、今の三八城山である。足下のこの大きな石は、弁慶石と呼ばれ、昔は境内南側のコブシの木のあたりに置かれていたという。
石のところどころが、人間の大きな足型のようにくぼんでいるのが、力自慢の弁慶が岩にしるした足型だといわれている。 社団法人 八戸観光協会」
と弁慶石を紹介している。因みに、昔は「義経石」もあったようだが、現在は行方不明になっているようだ。


矢の根石(栃木県) [弁慶]

2013年4月28日

2013-04-28_0021.JPG栃木県那須町を通り抜ける古代東山道(義経街道とも関街道ともいう)の路肩には、源義経一行が鎌倉に向けて通り過ぎたという言い伝えが残っている。
さて、義経の一の家臣(子分?)「武蔵坊弁慶」も、当然ながら一行に属してこの地にやって来ている。この一の子分、どうも少々ひょうきん者と言えるのではないだろうか。義経の伝説ある所には、相当高い確率で、その足跡を残している。
当地でも、やはりというか期待通りというか、足跡を残していてくれた。それがこの「矢の根石」である。

2013-04-28_0022.JPG「矢の根石」の説明書きに曰く「矢の根石伝 美野沢地区は、古代東山道(後世、義経街道とも関(せき)街道ともいう)の道筋にあたります。奥州平泉を発った義経一行が、兄頼朝のもとへ向かう途中、この地でのできごとが「追分明神」や「具足岩」をはじめ数多くの義経伝説として語り継がれています。
矢の根石もその一つで、弁慶が矢を取り出し、「わが願い吉ならば、この石に立てよ」と、傍らにあった岩に矢の根を指先にて押し込めば、あら不思議、矢が岩に突き刺さったではありませんか。先々の武運を占って、矢を立てるというしぐさは、占いの一方法で「立つべからずところに立つ」奇跡によって、吉の占いを得ることにあります。伝えられる矢の根石は、道路改修の時に埋められてしまいましたが、当委員会は、弁慶の故事にならって幸運をもたらす「矢の根石」を復元し、義経ゆかりの地を保存することにいたしました。平成二十四年九月 美野沢地区地域づくり委員会」
とのことで、残念ながら伝説の石は残されていないようだ。


弁慶鏡ケ井戸(東京都) [弁慶]

2013年1月5日

2013-01-05_0006.JPG義経が平泉に向かうのは、その短い人生(31年)の内2回ある。1回は京都鞍馬を抜け出し、奥州の商人”金売吉次”と共に行った時。この時は、途中(近江の国鏡の里とも、三(参)河の国熱田神宮とも言われる)で元服したとされる。又、2回目は兄頼朝との仲が不和となり、追われる身となって京から逃げる時である。
当地(東京都台東区池之端)を通ったのはどちらの時か定かではないが、”義経主従がこの地を通った時、「弁慶」が井戸を見つけた”とされていることから、恐らくは2回目の頼朝に追われる身となった時と思われる。

その真偽はともかくとして、東京の中央部(山手線の内側)に「義経伝説ゆかりの地」があるのには非常に驚かされた。

弁慶鏡ケ井戸(境稲荷神社内)台東区池之端 1-6-13

2013-01-05_0010.JPG2013-01-05_0011.JPG東大(東京大学)の池之端門脇に「境稲荷神社」があり、神社の裏(北側)に「弁慶鏡ケ井戸」がある。この場所は、上野の「不忍池」や「上野動物園」が直ぐ近所にあり、正に大都会のど真ん中と言っても過言ではない環境下にある。

神社に設置された解説には「境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(1469 〜1486)に室町幕府第九代将軍足利義尚(よしひさ)が再建したという。「境稲荷」の社名は、この付近が忍ヶ丘(しのぶがおか;上野台地)と向ヶ丘(むこうがおか;本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池之端一・二丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。
 社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和 15年に再び掘り出し、とくに昭和 20年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。 平成 6年 3月 台東区教育委員会」
とある。古くから地域住民の役に立って来た井戸ではあるが、現在、飲料用としては「不可」とされているようだ。


弁慶の首塚 他(神奈川県) [弁慶]

2012年12月8日

「弁慶の立ち往生」とは「故事ことわざ辞典」によれば「進むことも退くこともできないことのたとえ。」で「衣川の合戦で、弁慶は義経をかばうためになぎなたを杖にして、橋の中央に立ち、敵の攻撃を全身で受けて、立ったまま死んだという伝説」から転じたと解説されている。
このように、武蔵坊弁慶は岩手県平泉の衣川で、源義経と共に殉死している。そして吾妻鏡を始めとする各書物では、自害した義経を始め主だった部下の首級(くび)を藤原泰衡が鎌倉に届けているが、首実検された義経の首は、鎌倉の海岸にそのまま打ち捨てられているため、恐らく弁慶以下の首も同様だったのではないかと思われる。

<弁慶の首塚>

2012-12-08_0033.JPG2012-12-08_0034.JPG小田急線「藤沢本町駅」から数分の距離に「常光寺」が有り、白旗神社のHPで示されている地図からはこの寺の裏側に<弁慶の首塚>があるように見える。そこで、寺の境内から裏手に回り込むと、そこは一帯が寺の墓地となっていて、どこに塚があるのか判然としなかった。仕方なく寺の住職の方に教えを乞うと、寺の脇の道を入って行くと小さな祠(ほこら)があり、それが<弁慶の首塚>であるとのこと。行って見ると、確かに位置的に寺の裏手になる所に祠があり、中の碑を見ると「弁慶」の字が見て取れた。しかし、説明書きも何もなく、常光寺で聞いて行かなければ、恐らく発見は難しかったであろう。
この場所は、昔弁慶を祀る八王子社があった所らしいが、現在は八王子社はない。

<弁慶の力石>

2012-12-08_0040.JPG2012-12-08_0041.JPG白旗神社の社脇に<弁慶の力石>なるものがある。石の脇にある解説によれば、「力石の起源は、石占(いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱えて持ち上げ、その重い、軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。
しかし、時代の流れによって娯楽や鍛錬のための力試しになったといわれています。
白旗神社「弁慶の力石」はその昔、神社の西側古美根茶屋(現、古美根菓子舗)前に置かれ、茶屋で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げ力比べをしたといわれています。
この石は神石とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。(後略)」
と書かれている。

<弁慶の手玉石>

2012-12-08_0021.JPG江ノ電「腰越駅」近くの万福寺の境内にある<弁慶の手玉石>については何も解説がなく、その謂れは分からなかったが、石の形と重さから「弁慶ならお手玉にできるだろう」との発想で名付けられたのではないかと思われた。


<弁慶の腰掛石>

2012-12-08_0022.JPG同じ万福寺の境内(<弁慶の手玉石>の隣り)にある<弁慶の腰掛石>である。これについても特に解説はなかった。



弁慶堂(岩手県) [弁慶]

2012年8月18日

岩手県の平泉は、義経が鞍馬山を後にしてから、静岡県の黄瀬川で兄の頼朝と合流する間と、その頼朝と仲違いをして鎌倉幕府から追われる身となり、藤原秀衡を頼って再び当地に戻り、最終的には秀衡の息子泰衡に攻められて31年の生涯を終えた。その舞台となった地として、有名といえば余りにも有名な土地である。更に当地の中尊寺2011年に世界遺産にも登録となり、今や世界の平泉となってしまったといっても過言ではないだろう。

2度目の平泉には、義経に加えその郎党が供して来たが、あの武蔵坊弁慶も郎党の1人としてこの平泉に来ている。義経が衣川の高館で藤原泰衡の軍勢に攻められた時、主人義経を守る為に弁慶は果敢に戦い、最後は有名な「弁慶の立ち往生」で亡くなったとされている。 

2012-08-18_0075.JPG2012-08-18_0078.JPG<弁慶堂>
中尊寺の中にある弁慶堂の解説には「この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す。弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり。更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。」とされており、今にその名を残している。


薬研湯、弁慶の投げ松、義経弁慶の硯石(山形県) [弁慶]

2012年8月17日

今回は山形県もがみ温泉郷「瀬見温泉」に残る義経関連の伝説をご紹介する。

当地「瀬見温泉」には、「弁慶」と義経の「北の方(義経の正室)」にまつわる伝説が数箇所に亘って残っている。先ずは「弁慶」にまつわる伝説を紹介しよう。

 

2012-08-17_0049.JPG<薬研湯(やげんのゆ)>義経一行に同行していた「北の方」が、当地で産気付いたことから、弁慶が急ぎ産湯を探した所、「川辺に湯煙を見つけ、長刀で岩を砕いたところ温泉が湧き出てきた(瀬見温泉の解説より)」のがこの温泉である。

川原に濁った温泉()が溜まった所があり、これを薬研湯と言う様である。温泉街のメインストリートから数メートル程路地を入った所にあり、公共の「ふかし湯」の真裏になる。


2012-08-17_0055.JPG<弁慶の投げ松>「弁慶が亀若丸(義経の息子)の誕生を祝って、峠の頂上から投げた松が瀬見温泉駅から温泉に向かう途中に根付いている(瀬見温泉の解説より)」写真からも分かる通り、解説がなければごく普通の松として見過ごしてしまいそうである。

 

 

2012-08-17_0057.JPG<義経弁慶の硯石>「亀若丸の名をつける時、弁慶が硯として墨をすった岩。近くに、弁慶の足跡や馬の足跡のついている岩がある(瀬見温泉の解説より)」弁慶が大男で、非常な力持ちであるとの伝説から、このような伝説が各所に残されている。



弁慶定形石(奈良県) [弁慶]

2012年2月19日

奈良県大和郡山市郡山(こおりやま)城。そこの石垣に弁慶こと「武蔵坊弁慶」の足跡があるということで行って見た。
1202190008.JPG「弁慶定形石」と言われるその石は、当初城内の石垣にあるのかと思われたが、以外にも「桜御門」という門の跡の所にある石垣にあり、城址に入るまでもなく簡単に見つけることができた。

1202190005.JPG

写真でも明らかなように、史実に基くか否かを論じる必要もないだろう。伝承される弁慶のイメージから付けられた奇石の1つと思われる。
ただ、この地区は源義経郎党が都から奥州平泉へ落ち延びる際に通ったとされるルートの近隣であり、そういう意味から「弁慶の・・・」という名前が付けられても許せる気がするのである。

場所は、近鉄郡山駅の北側になる線路沿いの「郡山城址」。その北東角付近に「桜御門跡」が線路際にある。


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