SSブログ

弁慶の手掘井戸(新潟県) [弁慶]

2014年5月2日

元暦2年(1185年)11月3日、義経は300騎を引連れて都を落ち、西国を目指した。ここに始まる義経以下郎党の逃亡劇は、日本全国(主には北陸から東北)に様々な伝説を残すことになる。勿論、義経一行の逃亡ルートは定かではない。しかし最終的には、奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)に保護されていることから、凡そ京都から北陸道を進み、最終的に平泉に入るルートが考えられる。 
逃亡は多人数では目立つことから少人数であったことは想像に難くない。事実(?)各地に残る伝説でも武蔵坊弁慶他数人の家来が同行している。加えて、数人の女性も同行しているのも奇異といえば奇異だが、山形の瀬見温泉や他数カ所に残る伝説では、正室や妾など様々変化しながらも女性を伴っている。
そうした中、当地新潟県長岡市寺泊にある「聚感園(しゅうかんえん)」に残された古井戸は、弁慶が掘った井戸とされている。

2014-05-04_0005.JPG2014-05-04_0009.JPG<弁慶の手掘井戸>
新潟県長岡市寺泊二ノ関2725

義経一行が北陸を逃げて行く時に、鎌倉方の目を避けて一時逃げ込んだ当地の五十嵐家には、弁慶が掘った井戸が残されているとしている。

2014-05-04_0011.JPG現在はその五十嵐家邸宅跡が新潟県長岡市指定の文化財、史跡公園「聚感園」となっているが、「聚感園」の説明書きには「文治三年(1187年)頼朝に追われた義経・弁慶主従は奥州落の途次、追手の目をのがれて五十嵐家にかくまわれました。その時の浴室の跡と弁慶手掘の井戸があります。」と書かれている。

2014-05-04_0004.JPGまた、井戸の傍に立てられた説明には「弁慶井泉の詩 文治三年(1187年)源義経、弁慶主従が、北国落ちのとき、ここ五十嵐邸にしばらく滞留したと伝えられ、そのとき弁慶が自ら井戸を掘って義経に供したといわれている。文化年間に漢学者の亀田鵬斎が五十嵐家を訪れ、弁慶井泉の詩をつくった。(以下略)」と書かれている。


nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。