弁慶の墓(岩手県) [弁慶]
文治5年(1189年)閏4月30日、義経は奥州平泉の衣川館で、藤原泰衡の軍勢に攻められ、正妻と娘(4歳)を殺害し、自らも自害して果てた。この時、義経の家来であった”武蔵坊弁慶”も、あの「弁慶の立ち往生」で戦死したと伝えられている。
その後、弁慶の首級は義経の首級と共に、鎌倉に送られたと、神奈川県平塚市にある”白旗神社”の言い伝えにある。また白旗神社の直ぐ傍の”常光寺”には「弁慶の首塚」もある。となると、白旗神社の言い伝えが正しければ、今回紹介する”弁慶の墓”は”躰”だけが葬られた所ということになるが、果たして真実は如何に。
岩手県平泉町の世界遺産「中尊寺」。その参道入り口脇にあるのが「武蔵坊弁慶の墓」である。傍に立てられた「武蔵坊弁慶大墓碑 建立由来」という解説板には「文治五年(1189年)義経の居城高舘焼討されるや、弁慶は最後まで主君を守り、遂に衣川にて立往生す。遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて、後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ石碑が建てられた。色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊」とある。
2015-01-06 06:51
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