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飯縄寺(千葉県) [鞍馬から平泉]

2013年2月8日

「源義経」という人物の行動には不明な点が多々あり、移動の際のルートなども不明ということが多い。幼少期に預けられた「鞍馬寺」を抜け出し、奥州平泉の藤原氏の所まで行った時も、どのようなルートで京都から平泉まで行ったのか明らかになっていない。更には、同行者がいたのかいなかったのか、いたとするならそれは誰だったのか(通説では奥州の金商人「金売吉次」の隊商に紛れて行ったとされる。しかし「金売吉次」そのものの存在を疑う説もあるようだ。)。今も明らかにはなっていない。

2013-02-08_0012.JPG今回紹介する「飯縄寺」は、私の別ブログ「雑記帳」の「房総の彫刻師-波の伊八-」でも紹介しているように、千葉県いすみ市(房総半島)にある慈覚大師(円仁)が開祖と言われる由緒正しきお寺である。
ここに義経は、平泉に向かう途中で立寄ったとされている。

<飯縄寺(いづなでら)>千葉県いすみ市岬町和泉2935

2013-02-08_0013.JPGご存知のように、牛若丸(義経)が京の鞍馬寺で天狗に剣術を習ったという話は有名だが、後に、2013-02-08_0018改.jpg鞍馬寺を出て奥州平泉に向かう際に、鞍馬の「天狗」に「上総の国の飯縄寺に知合いの天狗がいるから寄ってみるがいい。」と言われ、当寺に立寄ったという伝説がある。また、”いすみ市立長者小学校”のHPによれば、「昔,夷隅川には大きなナマズがすんでいて,村人から食べ物やお酒,若い娘をみつがせて,要求に応じないと暴れて川の水をあふれさせたり,山津波を起こすというとんでもなく悪いヤツでした。そこに京都から奥州(岩手県南部)に行く途中に清水寺に立ち寄った牛若丸と弁慶がその話を聞きます。清水寺の大吊り鐘を運ばせ,弁慶の怪力で大ナマズにかぶせ,みごとに退治します。鐘を運んだ人は「大鐘」という姓をもらい,大ナマズを鐘ごと深く沈めたその場所は,現在の轟橋のそばで「鐘ガ淵」と呼ばれています。(太東岬物語)また、2013-02-08_0022改.jpg牛若丸と弁慶は和泉の飯縄寺に宿泊し,弁慶は牛若丸が京都の鞍馬寺で天狗を相手に修行した様子を絵馬に描いたそうです。絵馬は残っていませんが,弁慶と牛若丸の絵馬や天狗の面があり,飯縄寺は「天狗のお寺」と呼ばれています。」と紹介されている。



弁慶鏡ケ井戸(東京都) [弁慶]

2013年1月5日

2013-01-05_0006.JPG義経が平泉に向かうのは、その短い人生(31年)の内2回ある。1回は京都鞍馬を抜け出し、奥州の商人”金売吉次”と共に行った時。この時は、途中(近江の国鏡の里とも、三(参)河の国熱田神宮とも言われる)で元服したとされる。又、2回目は兄頼朝との仲が不和となり、追われる身となって京から逃げる時である。
当地(東京都台東区池之端)を通ったのはどちらの時か定かではないが、”義経主従がこの地を通った時、「弁慶」が井戸を見つけた”とされていることから、恐らくは2回目の頼朝に追われる身となった時と思われる。

その真偽はともかくとして、東京の中央部(山手線の内側)に「義経伝説ゆかりの地」があるのには非常に驚かされた。

弁慶鏡ケ井戸(境稲荷神社内)台東区池之端 1-6-13

2013-01-05_0010.JPG2013-01-05_0011.JPG東大(東京大学)の池之端門脇に「境稲荷神社」があり、神社の裏(北側)に「弁慶鏡ケ井戸」がある。この場所は、上野の「不忍池」や「上野動物園」が直ぐ近所にあり、正に大都会のど真ん中と言っても過言ではない環境下にある。

神社に設置された解説には「境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(1469 〜1486)に室町幕府第九代将軍足利義尚(よしひさ)が再建したという。「境稲荷」の社名は、この付近が忍ヶ丘(しのぶがおか;上野台地)と向ヶ丘(むこうがおか;本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池之端一・二丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。
 社殿北側の井戸は、源義経とその従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和 15年に再び掘り出し、とくに昭和 20年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。 平成 6年 3月 台東区教育委員会」
とある。古くから地域住民の役に立って来た井戸ではあるが、現在、飲料用としては「不可」とされているようだ。


三輪厳島神社(東京都) [源平合戦]

2013年1月5日

義経は治承4年、兄源頼朝の挙兵に参加すべく、奥州平泉から弁慶等郎党を伴って鎌倉へ向った。義経主従が多摩川を船で渡ろうとした時に、折り悪く二百十日の台風シーズンであったために、強風に煽られて大森辺り(東京都大田区大森)まで流されてしまった。陸地に社が見えたため神の加護と海上平穏を祈った所、たちまち強風が治まったため、神に感謝して社殿を修理し、船を泊めた所に注連竹(しめたけ)を建てたという。

<三輪厳嶋神社> 東京都大田区大森東4丁目35−3

2013-01-05_0002.JPG2013-01-05_0004.JPG当社は、R131(産業道路)の「弁天神社前」の交差点の所にある。同社境内には弁財天を祀る社もある。

境内にある説明書きには「かしこくも、当社の祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)の御女市杵嶋姫命(みじょいちきしまひめのみこと)にまします。謹みて創立の起源を神記口碑(しんきこうひ)に因(よ)り案ずるに。安徳帝治承四年(1180年)源義経は武蔵坊弁慶・伊勢三郎・駿河治郎等の郎徒を具し、東海道玉川の渡しを過ぎけるが、頃しも二百十日の厄日にて南西の風吹き荒(すさ)び、舟は見る見る押し流され大森下に漂えば一同安き心なく、波方(なみかた)を望むれば、小高き杜(もり)見えしかわ、これ神のおはします処と其の方に向い、海上平穏を念じければ、不思議や風やみ浪治まりぬ。義経霊に感じ、舟を瀬島につけ、葭(かや)をなぎ葦(あし)を分けて彼方の森を尋(たず)ぬれば、ささやかなる社(やしろ)の縁に白蛇顕われいたり。これ神の使ひなめならぬ。かしこし、厳嶋大神(いつくしまのおおかみ)我等が運を守らせ給ひしことよと、里人に語らい改めて森を拓き、神殿を修理し、また船をとどめし処に注連竹(しめたけ)を建て給う。是れ当社創立、起立の起源にして今を去ること八百年に及ぶ。
是れより里人等神徳を尊ぶこと愈々(いよいよ)深く、海面守護の神として毎年正月十一日水神を祀(まつ)りしが、ある年海面に建てし注連竹(しめたけ)に黒き苔生じければ、人々怪しみてこれを採り嗜(たしな)めけるに味あり。生酢干かにして食せば殊に風味よし翌年其の頃を計りて木枝多く建てけるに、またまた苔の生じければ種々製造法を考え遂に現今の如き乾海苔に製し年と共に製造するもの多し、海の苔即ち「のり」と称し鎌倉将軍に献上の栄を担い、江戸幕府開かるるに及び毎年将軍家に献上し、維新の際まで変わることなかりしは人の皆知る処なり。
嗚呼、大森の名産とし名誉海外にたかき海苔の濫觴(らんしょう)たる如斯(かくのごとく)にして、如何に我が厳嶋大神の海面御守護の御神徳高きか、かしこくも尊きことにこそ。」
と記されていた。


弁慶の首塚 他(神奈川県) [弁慶]

2012年12月8日

「弁慶の立ち往生」とは「故事ことわざ辞典」によれば「進むことも退くこともできないことのたとえ。」で「衣川の合戦で、弁慶は義経をかばうためになぎなたを杖にして、橋の中央に立ち、敵の攻撃を全身で受けて、立ったまま死んだという伝説」から転じたと解説されている。
このように、武蔵坊弁慶は岩手県平泉の衣川で、源義経と共に殉死している。そして吾妻鏡を始めとする各書物では、自害した義経を始め主だった部下の首級(くび)を藤原泰衡が鎌倉に届けているが、首実検された義経の首は、鎌倉の海岸にそのまま打ち捨てられているため、恐らく弁慶以下の首も同様だったのではないかと思われる。

<弁慶の首塚>

2012-12-08_0033.JPG2012-12-08_0034.JPG小田急線「藤沢本町駅」から数分の距離に「常光寺」が有り、白旗神社のHPで示されている地図からはこの寺の裏側に<弁慶の首塚>があるように見える。そこで、寺の境内から裏手に回り込むと、そこは一帯が寺の墓地となっていて、どこに塚があるのか判然としなかった。仕方なく寺の住職の方に教えを乞うと、寺の脇の道を入って行くと小さな祠(ほこら)があり、それが<弁慶の首塚>であるとのこと。行って見ると、確かに位置的に寺の裏手になる所に祠があり、中の碑を見ると「弁慶」の字が見て取れた。しかし、説明書きも何もなく、常光寺で聞いて行かなければ、恐らく発見は難しかったであろう。
この場所は、昔弁慶を祀る八王子社があった所らしいが、現在は八王子社はない。

<弁慶の力石>

2012-12-08_0040.JPG2012-12-08_0041.JPG白旗神社の社脇に<弁慶の力石>なるものがある。石の脇にある解説によれば、「力石の起源は、石占(いしうら)といわれています。神社に置かれた特定の石を、老若男女にかかわらず願い事を唱えて持ち上げ、その重い、軽いの感触によって願い事の成否・吉凶を占っていました。
しかし、時代の流れによって娯楽や鍛錬のための力試しになったといわれています。
白旗神社「弁慶の力石」はその昔、神社の西側古美根茶屋(現、古美根菓子舗)前に置かれ、茶屋で一服する近郊農家や町内の力自慢がこの石を持ち上げ力比べをしたといわれています。
この石は神石とも呼ばれ、この石に触れると健康になり病気をしないといわれています。(後略)」
と書かれている。

<弁慶の手玉石>

2012-12-08_0021.JPG江ノ電「腰越駅」近くの万福寺の境内にある<弁慶の手玉石>については何も解説がなく、その謂れは分からなかったが、石の形と重さから「弁慶ならお手玉にできるだろう」との発想で名付けられたのではないかと思われた。


<弁慶の腰掛石>

2012-12-08_0022.JPG同じ万福寺の境内(<弁慶の手玉石>の隣り)にある<弁慶の腰掛石>である。これについても特に解説はなかった。



白旗神社と伝源義経首洗井戸(神奈川県) [平泉以後]

2012年12月8日

文治5年(1189年)閏4月30日、藤原泰衡衣川高館にいる源義経を攻めた。その数100騎と言われている。無勢の義経は妻子と共に自刃し、その生涯(享年31歳)を終えた。そして、義経の首級は美酒に浸され黒漆塗りの櫃(ひつ)に収められ、新田冠者高平を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。6月13日、首実検が和田義盛梶原景時らによって、腰越の浦で行われ、その後その首級は浜に捨てられた。

<白旗神社>神奈川県藤沢市藤沢2-4-7

2012-12-08_0035.JPG2012-12-08_0036.JPG小田急江ノ島線「藤沢本町駅」から歩いて7-8分の国道467号沿いにある。
コンクリート作りの鳥居を潜ると、正面の高台に義経を祭る神社がある。
白旗神社の説明書きには「伝承では、弁慶の首も同時に送られ、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれています。」白旗神社HPより)とあり、平泉から運ばれた首級は義経1人のものだけではないことがうかがえる。
2012-12-08_0037.JPG白旗神社の祭神の中に「源義経公」とあり、由緒には「古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊を祀って、寒川神社とよばれていた。しかし、創立年代はくわしくはわからない。
鎌倉幕府によって記録された『吾妻鏡』によると、源義経は兄頼朝の勘気をうけ、文治五年(1189)閏四月三十日奥州(岩手県)平泉の衣川館において自害されたその首は奥州より新田冠者高平を使いとして鎌倉に送られた。高平は、腰越の宿に着き、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時におくられ、首実検がなされ、夜の間に二つの首は、この神社に飛んできたという。このことを鎌倉(頼朝)に伝えると、白旗明神として此の神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神とし、のちに白旗神社とよばれるようになった。弁慶の首は八王子社として祀られた。」
とある。赤字で示したように鎌倉の指示で義経の首をこの神社で祀るようになったというのは興味深く思った。

<源義経公鎮霊碑> 

2012-12-08_0038.JPG2012-12-08_0039.JPG白旗神社の社前につくられた「源義経公没後810年記念」の鎮霊碑とその説明には「文治五年(1189年)閏四月三十日、奥州平泉、衣川の高館(タカダチ)で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害し悲壮な最期を遂げた。 その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬礼所に葬られ、また一方の御首は奥州路を経て、同年六月十三日、腰越の浦の首実検後に捨てられたが、潮に逆流し白旗神社の近くに流れつき、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。
本年、源義経公没後八百十年を記念し、両地有志の方々により「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斎行し、茲に源義経公鎮霊碑を建立する。 平成十一年六月十三日 白旗神社」
と記されていた。

<伝源義経首洗井戸>

「藤沢本町駅」から歩いて数分の所に「伝源義経首洗井戸」の標識があり、ビルの横の小道を入ると突き当たりに小さな公園と共に、「首洗井戸」「首塚」がある。
写真のように井戸は石造りでかなりしっかりした造りとなっており、見るからに後世につくり直したと見える。
2012-12-08_0032.JPG「伝源義経首洗井戸」の標識


2012-12-08_0030.JPG「伝源義経首洗井戸」


2012-12-08_0029.JPG「九郎判官源義経公之首塚」



2012-12-08_0028.JPG「首塚」、「首洗井戸」は隣り合うような形で設置されており、傍の説明書きには「「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり文治五年(1189)に藤原秀衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。義経の首は首実検ののち片瀬の浜に捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。 ここから北方四〇メートル辺に義経首塚と伝える遺跡もありました。(現在は井戸近くに移動されている)と記載されていた。


万福寺-腰越状の地-(神奈川県) [源平合戦]

2012年12月8日

元暦2年(1185年)5月、義経は平宗盛清宗父子を護送して鎌倉へ向かうが、腰越で止められてしまう。兄、源頼朝に無断で義経が任官したことや、鎌倉御家人の梶原景時による讒言などで、頼朝は義経を完全に敵視していたのである。義経は頼朝に取成しを頼むため、世にいう「腰越状」を公文所別当の大江広元に宛てて書いたのがこの腰越であり、その書状が今も万福寺に残されている。

この話は鎌倉幕府正史とされる「吾妻鏡」に記載されているのだが、腰越のエピソード自体を、最近疑問視する意見もあるようである。その理由として①義経は腰越で留め置かれてはおらず、平宗盛・清宗親子を伴って頼朝と面会している。②腰越状は義経の自筆ではない。などによるのである。また、その他の理由もあって「吾妻鏡」そのものを疑問視する意見もあるようだ。
「吾妻鏡」の成立年代は1300年頃とされており、その頃には当然ながら風聞や編者の創作も含まれる可能性を秘めていておかしくないだろう。

<万福寺>神奈川県鎌倉市腰越二丁目4-8

2012-12-08_0007.JPG2012-12-08_0023.JPG鎌倉と藤沢を結ぶ「江ノ電」の「腰越駅」から歩いて数分の所にある。
拝観時間は9:00-17:00(?)で大人200円となっている。
「腰越状」は本堂に繋がる玄関ロビーのような所にその他の源氏所縁の品々と共に展示されていた。写真撮影はokとのこと。

鎌倉市教育委員会と鎌倉文学館の案内板には「<源義経と腰越>鎌倉時代前期の武将、源義経は、幼名牛若丸、のちに九郎判官と称した。父は源義朝、母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。治承四年(1180年)兄頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184年)兄源範頼とともに源義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破った。帰洛後、洛中の警備にあたり、後白河法皇の信任を得、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、平氏追討の任を解かれた。文治元年(1185年)再び平氏追討に起用され、讃岐屋島、長門の浦に平氏を壊滅させた。
しかし、頼朝との不和が深まり、捕虜の平宗盛親子を伴って鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留。この時、頼朝の勘気を晴らすため、大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。
「平家物語」(巻十二 腰越)には次のように記されている。
  さればにや、去んぬる夏のころ、平家の生捕どもあい具して、関東へ下向せられけるとき、腰越に関を据ゑて、鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官,本意なきことに思ひて、「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、参らせられけれども、用ひられざれば、判官力におよばず。その申し状に曰く、
  源義経,恐れながら申し上げ候ふ意趣は、御代官のそのひとつに撰ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。(略)
(引用文献 新潮日本古典集成 昭和五十六年)
しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などの作品にもなり、現在でも「判官もの」として親しまれている。
中世には鎌倉と京とを結ぶ街道筋のうち、腰越は鎌倉-大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。 平成八年二月」
と記されている。


つる舞の里(神奈川県) [源平合戦]

2012年10月20日

源平合戦の最終地「壇ノ浦の合戦」で平氏軍に大勝した源氏軍。その総大将でもあった源義経は、平氏の捕虜である平宗盛清宗らを引き連れて鎌倉の兄、源頼朝に戦勝報告にやって来る。しかし頼朝は義経一行に鎌倉へ入ることを許さず、腰越に留まらざるを得なくなった。義経が頼朝に許しを請うため書いたとされる、有名な「腰越状」の地である。結局「腰越状」の効果もなく、鎌倉入りの許可が下りないまま義経一行は捕虜を伴って京へ引き返すのだが、帰りしなに立ち寄ったとされる相模の国の神社に残される伝説がある。

2012-10-20_0002.JPG2012-10-20_0004.JPG浅間神社(せんげんじんゃ)
神奈川県大和市下鶴間391

神奈川県神社庁」のHPの説明によれば、「文治元年(1185年)324日、源義経は平家一族を壇の浦に破り平宗盛清宗等を捕虜として堂々と京の都に凱旋した。後白河法皇はその功をめで官位を与えようとした。しかし彼は鎌倉の御家人であり、頼朝の命があるまで受けることはできないと辞退をしたが、たってという法皇の勅によりそれを受けてしまった。
 また宗盛等捕虜の処遇についても人情家である義経の行為は鎌倉にある頼朝には意にそぐわぬことばかりであった。そのうち義経は捕虜を鎌倉へ送るべく京を発ったが、途中、頼朝の命を受けた北条時政が捕虜を受取り、義経等一行の鎌倉入はまかりならんといふ頼朝の命を伝へ鎌倉へ帰ってしまった。義経はやむなく鎌倉の目の前の腰越万福寺に家来と共に滞在し、頼朝の許しのある日を待つことにした。しかしその許はなかなかおりず思いあまって心中を書状にし、大江広元に託したが握りつぶされ、兄の目にふれる事ができなかった。(これが有名な要腰状である。)そのためやむなく一ケ月後に鎌倉入をあきらめ再び京へ向って腰越を発った。途中で、鶴間の浅間神社で一休みをしたが、この時一羽の鶴が鎌倉の方へ飛んで行くのを見て「あの鶴でさえ鎌倉へ入れるのに凱旋したこの義経が入れぬとはなんたる仕打」となげき、「自分は二度と鎌倉の地は踏めないだろう」といって頼朝へのみやげに持って来た珍器財宝を今はすべなしと境内のいずこかに埋めると、神社の堂に「あさ日さし夕日かがやく木の下に黄金千両漆万杯」と歌を書いて去って行った。」との伝説が上げられている。
また、大和市のつる舞の里歴史資料館」のHPには「資料館が建っているつきみ野の地は、かつて下鶴間村と呼ばれていました。この「鶴間」という地名の由来にはいくつかの伝説があります。源頼朝が富士の鷹狩りの帰途この地を通り、鶴が舞うのを見て「鶴舞の里」と名づけたというものや、源義経がこの地を通ったときに鶴が舞うのを見たというものです。義経がこの地を通ったのは、平氏討伐後、兄頼朝の怒りにふれ失意のうちに京都へ帰る途中で、頼朝あてに持参した財宝を鶴間の地に埋めたという伝説も残っています。この「鶴舞い」が転じて「鶴間」という地名になったともいわれており、資料館はこのような伝説にあやかって「つる舞の里歴史資料館」と名づけられました。」と地名の由来も説明されている。
そこで今回、私は当社を訪れてみたが、境内に義経に関係する説明書き等は一切なく、事前の調べをしてなければ「義経ゆかり」とは分からない状況だった。もしかすると「義経の財宝」を狙ったトレジャーハンターによる被害を心配して、そのような記載をしていないのかも知れない・・・などとも考えた次第である。

2012-10-20_0007.JPG2012-10-20_0006.JPG左馬神社(さばじんじゃ)
神奈川県大和市上和田1168

大和市イベント観光協会」のHPによれば「左馬神社は、宝暦143月(1764)に名主渡辺兵佐衛門・小川清衛門がこの地に宮を建立したと伝えられています。また、本宮が城山にあったという伝えもあることから、年代は不詳です。境川をはさんで、下流に源義経を祀ってある神社は七つあります。上和田左馬神社、下和田左馬神社、下飯田鯖神社、高倉七つ木神社、今田鯖神社、下飯田飯田神社、橋戸左馬神社です。これらの神社を巡る七サバ参りという信仰があり、疱瘡、麻疹、百日咳に効き目があるといわれています。また、このサバ神社が集中していることについては、義朝の領地であったとの説など沢山の説があります。ここには、社殿と共に神楽殿があり、里神楽が氏子の間で伝承されています。」とされている。ここで、「義朝の領地」とあるが、周知のように「義朝」とは義経や頼朝の父「源左馬頭(さまのかみ)義朝」である。と言う訳で、当社の名称「左馬神社」の「左馬」は義朝の位であった「左馬頭(さまのかみ)」から来たのではないかと思われる。字の読みから「さま」ではなく「さば」と読まれ、それがために「左馬」が転じて「鯖」になった神社もあるようだ。

当社は比較的広目の境内を有しているが駐車場がないようで、境内に入って見ることはできなかった。義経が祀られているとのことで行ってみたが、特に伝説的なこともないようである。


九郎明神社、二枚橋(神奈川県) [源平合戦]

2012年7月29日

神奈川県川崎市麻生区付近に残る義経伝説の一部を紹介する。
一つは<九郎明神社>で、もう一つは<二枚橋>である。何れも義経の兄、源頼朝が反平家の旗揚げを行ったことを聞き付けた義経が、急ぎ奥州平泉から駆けつける道すがらの伝説である。
所で、当地の伝説によれば、義経軍は京都から馳せ参じる途中とする話が多いように思われる。鎌倉幕府正史「吾妻鏡」によれば、義経は奥州平泉から藤原秀衡に与えられた部下を伴って馳せ参じることになっている。恐らくその辺は伝説として伝えられている内に変化してしまったのではないかと思われる。

2012-07-29_0160.JPG2012-07-29_0162.JPG<九郎明神社>川崎市麻生区古沢 172

伝説
よれば源義経が平泉から鎌倉へ馳せ参じる途中、当地を通りかかった時に日暮れとなってしまったため、義経一行がこの村に泊めてもらった。その礼に村民に与えた刀(一説には、刀ではなく「鉄扇」とも)を、鎮守として祀ったのが明神社の始まりだという。
神社には駐車場がなく、駐車スペースもないことから、マイカーで訪問した私としては非常に困った。仕方なく嫁様に番をしてもらって、路駐にて急ぎ撮影だけを行った。急ぎの撮影はやるものではない。お分かりの通り周囲の暗さから写真がブレてしまった。(私のカメラには手振れ防止機能が付いていないのである。)

2012-07-29_0166.JPG2012-07-29_0165.JPG<二枚橋>

読売ランド」から鶴川街道に突き当たる交差点の直ぐ手前に「二枚橋」がある。ここも交通量が多く、簡単に路駐ができる場所ではなかったが、運よく車が途絶えた時を狙い、素早く撮影することができた。ネット情報では「頼朝の旗揚げに、義経が奥州の平泉から駆けつける途中、ここを通りかかり、橋が壊れかけていたため、弁慶達が馬も通れる橋に作り治した。丸太を並べた上に土を盛ってあり、横から見ると「のし餅」を二枚重ねたように見えるので「二枚橋」と名付けられた」との言い伝えを書いた説明書きが橋の脇にあったようだが、私が行った時は、工事のためか説明書きなどはなく、橋の欄干の義経、弁慶の絵(?)でのみ確認した。


高館義経堂(岩手県) [平泉]

2012年8月18日

兄の源頼朝と不仲となり、鎌倉方に追われる身となった義経は、都落ちして姿を変えながら郎党と共に奥州平泉まで逃げ延び、藤原秀衡に匿ってもらった。そして、秀衡亡き後息子の泰衡が鎌倉の圧力に負けて、義経を攻めるまでの間、義経は北の方(吾妻鏡では河越太郎重頼の女;郷御前としている)と娘の3人でこの衣川の館(高館)で平穏に暮らしたのだが、泰衡の攻撃により義経とその妻子はここで最期を迎えたとされている。 

2012-08-18_0123.JPG中尊寺から衣川館跡となる「高館義経堂」は、車で5分ほどの距離にある。やや狭目の脇道に折れると直ぐに、10台程停められる駐車場があり、そこからは歩いて緩やかな坂道を23分登ることになる。
義経堂の境内は思ったより狭い感じがしたが、その境内から見える北上川や周辺の景色は素晴らしいものであった。
 

2012-08-18_0120.JPG2012-08-18_0125.JPG高館義経堂
義経堂は、仙台藩主伊達綱村(第4代)公が義経を偲んで建立したとされている。また、堂の中に本尊として祀られている義経は、堂創建時に作成された木造の義経像とのこと。

平泉町観光協会の説明では「ここ高館(たかだち)は、義経最期の地として伝えられてきた。藤原秀衡(ひでひら)は、兄頼朝に追われて逃れてきた義経を平泉にかくまう。しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡(やすひら)は、父の遺命に背いて義経を襲った。文治五年(1189年)閏四月三十日、一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。時に義経三十一歳。吾妻鏡によると、義経は「衣河館(ころもがわのたち)」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館(はんがんだて)」とも呼ばれるこの地は、「衣河館」だったのだろうか。ここには天和三年(1683年)伊達綱村の建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祭られている。頂上からの眺望は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてて東に束稲(たばしね)の山なみが眺められる。束稲山は往時、桜山とも呼ばれ、西行(さいぎょう)が山家集で「ききもせず 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」と詠じた。また、元禄二年(1689年)、俳聖松尾芭蕉が「おくのほそ道」で詠んだ「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、この場所といわれている。平成六年四月 平泉町観光協会 -高館義経堂解説より-」と書いている。


弁慶堂(岩手県) [弁慶]

2012年8月18日

岩手県の平泉は、義経が鞍馬山を後にしてから、静岡県の黄瀬川で兄の頼朝と合流する間と、その頼朝と仲違いをして鎌倉幕府から追われる身となり、藤原秀衡を頼って再び当地に戻り、最終的には秀衡の息子泰衡に攻められて31年の生涯を終えた。その舞台となった地として、有名といえば余りにも有名な土地である。更に当地の中尊寺2011年に世界遺産にも登録となり、今や世界の平泉となってしまったといっても過言ではないだろう。

2度目の平泉には、義経に加えその郎党が供して来たが、あの武蔵坊弁慶も郎党の1人としてこの平泉に来ている。義経が衣川の高館で藤原泰衡の軍勢に攻められた時、主人義経を守る為に弁慶は果敢に戦い、最後は有名な「弁慶の立ち往生」で亡くなったとされている。 

2012-08-18_0075.JPG2012-08-18_0078.JPG<弁慶堂>
中尊寺の中にある弁慶堂の解説には「この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した傍らに義経公と弁慶の木像を安置す。弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿なり。更に宝物を陳列国宝の磬及安宅の関勧進帳に義経主従が背負った笈がある代表的鎌倉彫である。」とされており、今にその名を残している。


亀割子安観音、山神社(山形県) [京から平泉]

2012年8月17日

義経主従が都落ちし奥州平泉の地へ逃れる途中の出来事として、当地「瀬見温泉」で、同行の「北の方(義経の正室)」がお産したとする伝説が残されている。
鎌倉幕府の正史として有名な「吾妻鏡」では、勿論この辺の記載は一切ない訳だが、平泉の衣川館(高館)で藤原泰衡に攻められて義経が自害する時に、妻(北の方?)と子(女の子)を刺殺し、その後に自害したという記述がある。当地に残された伝説が史実に即しているか否かの判断は別として、どこかの時点で義経主従と北の方が合流して平泉に入った可能性はある。所で、この「北の方」は一体誰なのか・・・というのが、未だ明らかになっていない。「北の方」には3つ程説があり、「吾妻鏡」の記述を根拠として源頼朝の御家人「河越重頼」の女(娘)「郷御前」とする説、「源平盛衰記」に記述される「大納言平時忠の娘」とする説、「義経記」に記述される「久我大臣の娘」とする説である。しかし「吾妻鏡」が史実に基いているとの認識から、「河越重頼の女(娘)」とする説が有力であるようだ。 (「久我(こが)大臣」とは「源通親」とする説があるが定かではない。)

2012-08-17_0065.JPG<亀割子安観音>
北の方がお産をした際に加護のあった観音様を祀っている。子授かりと安産の神として信仰されている。(瀬見温泉散策マップより)

北の方がお産したのは、この観音より山に2km程入った「奥の院」で、この時生まれた子が「亀若丸」と言われているとのこと。


 

2012-08-17_0070.JPG<山神社>
産屋を建て、北の方がしばらく養生した所。後に村人が山神社の祠を建てた。弁慶が笈(おい)を掛けて休んだ桜「笈(おい)掛け桜」が近くにあったといわれている。(瀬見温泉散策マップより)

 



薬研湯、弁慶の投げ松、義経弁慶の硯石(山形県) [弁慶]

2012年8月17日

今回は山形県もがみ温泉郷「瀬見温泉」に残る義経関連の伝説をご紹介する。

当地「瀬見温泉」には、「弁慶」と義経の「北の方(義経の正室)」にまつわる伝説が数箇所に亘って残っている。先ずは「弁慶」にまつわる伝説を紹介しよう。

 

2012-08-17_0049.JPG<薬研湯(やげんのゆ)>義経一行に同行していた「北の方」が、当地で産気付いたことから、弁慶が急ぎ産湯を探した所、「川辺に湯煙を見つけ、長刀で岩を砕いたところ温泉が湧き出てきた(瀬見温泉の解説より)」のがこの温泉である。

川原に濁った温泉()が溜まった所があり、これを薬研湯と言う様である。温泉街のメインストリートから数メートル程路地を入った所にあり、公共の「ふかし湯」の真裏になる。


2012-08-17_0055.JPG<弁慶の投げ松>「弁慶が亀若丸(義経の息子)の誕生を祝って、峠の頂上から投げた松が瀬見温泉駅から温泉に向かう途中に根付いている(瀬見温泉の解説より)」写真からも分かる通り、解説がなければごく普通の松として見過ごしてしまいそうである。

 

 

2012-08-17_0057.JPG<義経弁慶の硯石>「亀若丸の名をつける時、弁慶が硯として墨をすった岩。近くに、弁慶の足跡や馬の足跡のついている岩がある(瀬見温泉の解説より)」弁慶が大男で、非常な力持ちであるとの伝説から、このような伝説が各所に残されている。



指月橋(神奈川県) [京から平泉]

2012年7月29日

神奈川県川崎市多摩区の菅仙谷という所に、義経主従が平泉に落延びる道すがらの伝説地がある。この付近(同市麻生区も含む)は、他にも”義経”にまつわる伝説の地が多くあり、一説には、義経の家来四天王の一人「亀井六郎重清(かめいろくろうしげきよ)」の居城「亀井城」城下であったことに由来するという話もある。

<指月橋>
2012-07-29_0169.JPG指月橋の袂に立てられた「小沢城址里山の会」の説明「指月橋の物語」には、次のような説明が記されている。「皆さんが何気なく渡っているこの橋にも歴史の一コマが秘められております。これは、文治二年(1186年)今から八百五十年前の出来事に由来します。
2012-07-29_0172.JPG皆さんもご承知の通り義経と弁慶たちは、義経の兄である源頼朝に追われる身となりました。それは、一ノ谷の戦いで平家を痛め付け、壇ノ浦で滅ぼした功績により、後白河法皇から検非違使の位(盗賊の逮捕・風俗の取り締まり・非法の弾圧に当たる任務・現在の県警本部長に相当する位)を授かりました。これが頼朝の耳に入り、兄の許しも得ず平家を滅ぼし、朝廷より過分な位まで授かった事への怒りをかってしまったのです。そこで頼朝は、「義経、弁慶どもを捕えよ」という布令を出したのです。そうとは知らぬ義経達は、京から鎌倉を目指していました。しかし、途中の静岡あたりでその事に気付きました。そこで鎌倉へは向かわず、義経が幼い頃より青年時代までを過ごした岩手県の藤原秀衡の元に逃れることにしました。その道すがら一夜の宿を
寿福寺(川崎市多摩区菅仙谷1-14-1)に求めてこの橋まで来ました。しかし、橋板が朽ちて穴があいていました。(私が十歳、つまり昭和九年頃は、直径十センチ位の松の丸太が敷き詰められていました)このまま馬に乗って渡ったのでは馬の足がはまって骨折してしまうため馬から降りて点検することにしました。ふと夜空を見上げると満月が皓々と輝いていました。その満月を指して「今宵も良い月じゃのー」と言ったかどうか定かではありませんが、指月橋の指月とはまさにそれなのです。(小沢城址里山の会 広報担当 菅の語りべ 宮崎;平成十三年四月十日)」
解説の内容では、少々現在の歴史解釈と異なる部分があるが、それはさておき、文責の「小沢城址里山の会」の「小沢城」と、先に記した「亀井六郎」の「亀井城」との関係は定かではない。

地図から分かるように、場所はJR稲田堤もしくは京王稲田堤からが近い。住宅地の中にあり、用水路のような整備された小さな川に架けられた橋で、うっかりすると見過ごす可能性もある。


鼠ケ関(念珠関)(山形県) [京から平泉]

2012年5月2日

1205020016.JPG1205020014.JPG義経主従が都を落ちて奥州平泉の藤原秀衡(ふじわらひでひら)の所まで、どのように行ったかは定かではない。そのような中で今に伝わる伝説が、今回ご紹介する「鼠ヶ関(ねずがせき)」(念珠関)である。当地は、日本海に面した新潟県と山形県の県境で、山形県側にある。その直ぐ傍に「弁天島」という、現在は海に突き出た岬のような所に、義経主従が船で到着し上陸したとされているようである。「鼠ヶ関」の解説版には『「義経記」の義経一行奥州下りの鼠ヶ関通過の条は、歌舞伎の「勧進帳」をおもわせるごとき劇的場面として描かれている。また、当地方には次のような物語が伝えられている。義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来るが、馬下からは船で海路をたどり鼠ヶ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過した。そして、関所の役人の世話をする五十嵐治兵衛に宿をもとめ、長旅の疲れをいやし、再び旅立って行ったという。』との記載がある。又、(現状の)関の入り口には「勧進帳の本家」と書かれている。歌舞伎「勧進帳」と言えば、その舞台は「安宅関」とされているが、実はその元となった逸話はこの「鼠ヶ関」での出来事だというのである。当地の「本家」主張の根拠は、「義経記(ぎけいき)」によるものと思われる。

1205020004.JPG1205020001.JPGさて、「鼠ヶ関」の直ぐ傍にある「弁天島」というは、漁港の端とも言うべき所に「弁天島」の石柱と共に厳島(いつくしま)神社がある。余談だが「厳島神社」(安芸の宮島)は平家一門の氏神として、平清盛が特に崇めた神社と「平家物語」に出て来ている。もう一つ余談だが、では源氏の氏神は?と言うと、京都府八幡市にある「石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)」とされている。
「弁天島」には特にこれと言った義経に係わる逸話は標記されていなかったが、2005年に放送されたNHK大河ドラマ「義経」を記念して「源義経ゆかりの地」なる碑が厳島神社境内に建てられていた。因みにこの碑は、大河ドラマ放送終了後に作られたようでまだ新しい物であった。当初この碑を見つけた時、私はこの地での撮影を記念する物かと勘違いしてしまった。


静の里(兵庫県) [静]

2012年3月11日

静御前の晩年、即ち鎌倉幽閉から許されて、母”磯の禅師(尼)”と共に京に戻った後、何処に住み、どのような暮らしを、誰と(1人なのか複数なのか、母は一緒だったのか、別れて住んだのか)、そしていつ亡くなったのか、等々、その実状を残す記録などは全く残っていない。
ある説では「東北平泉へ義経を追った」とするもの。また「母(磯の禅師)」と母の生まれ故郷に戻り、病のため20数歳で没したとするものがあるが、実状は定かではない。
私が調べた状況では、前者説に即した伝説として「長野県大町」「埼玉県栗橋」「福島県郡山」などがあり、後者説では「奈良県大和高田」「京都府京丹後」「香川県東かがわ」などがある。

今回紹介する「静の里公園」は兵庫県淡路島にあり、前者説ではなく後者説に近いが、同公園の説明書きには「(静御前)没后、一条中納言家の荘園たりしこの地に葬す」とあることから、何処か他所の地(恐らくは都?)でなくなり、 一条中納言家の計らいで、当地に埋葬されたのではないかと想像するが、確たる根拠はない。

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「静の里公園」入口

1203110007.JPG「静御前」の墓地入口
1203110008.JPG「静御前の墓」の解説
1203110011.JPG「静御前」と「源義経」の墓が並んで建てられている。「源義経」の墓は、その霊を弔うと意味合いで建てられたもので、実際にここに骨を埋めた訳ではないと思われる。
「静」の”最愛の人”とあの世でも仲睦まじく暮らせるようにという、後世の人々の思いではなかろうか。
1203110014.JPG「静御前墓碑由縁」として古語体で説明が書かれている。


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